契約書は婚姻届

33.彼の正体

「はぁ……。水越君、君……これで何度目か分かってる?」
「申し訳ありませんでした!」
 大樹と別れてから一週間が経過した。この日、仕事でミスをした響子は、上司の前で深々と頭を下げていた。この日だけでは無い。彼女はこの一週間、何度もミスを繰り返している。
 彼女が犯した失敗で、今の所大きなものは無い。その事が唯一の救いだった。
 しかし、いくら小さな失敗でも、何度もミスを繰り返す響子の仕事態度に、流石の上司も頭を痛めていた。
「最近、注意力が散漫になってるんじゃないか? もう新人じゃないんだ、これからは本当に気を付けてくれよ」
「はい……本当に……すみませんでした」
 再度頭を下げる響子の様子に、今日はもう終わっていいから、と上司は少々疲れた声で告げる。はい、と小さく返事をし、響子は自分のデスクへ戻っていく。
 近くで帰り支度をしていた同僚や、先輩が、あまり気にしない方がいい、体調は大丈夫か、と次々に声を掛けてくれた。それぞれにありがとうと感謝を伝えながら、響子は、デスクの上に置きっぱなしになっていた書類を片付け始める。
 この一週間、明らかに集中力が途切れる事が多くなった。それは、響子本人が一番理解している。認めたく無いと思いつつ、彼女自身、既に原因もわかっていた。
 新人時代に度々失敗を繰り返していた響子も、仕事に慣れるにつれ、ここしばらくミスをするは無かった。ここ最近続いている不調の原因が、大樹と別れた事による精神的ダメージだと気付かないわけがない。
 彼女本人もその自覚はあり、何度も仕事に集中しなければ、忘れなければと思い、自分の感情を追い出そうとしている。しかし、響子がいくら頑張っても、そんな努力で忘れられる程、彼女の心の傷は軽いものでは無かった。
「こーら、顔が暗いよ」
「……いたっ、志保」
 突然後頭部を叩かれた衝撃を感じ、慌てて痛みを感じた部分を手で庇いながら振り向く。すると、響子の背後には、すっかり帰り支度を済ませた志保が立っていた。
「ほら、さっさと支度して。行くよ」
「え……あの、行くって……どこに?」
 突然、行くよと言われても、これから彼女と二人でどこかへ行く予定は無かったはずだ。友人の突然すぎる発言に、響子の頭の中に疑問符が浮かぶ。
 不思議そうな顔をして自分を見上げる響子の姿に、志保は少々呆れた様子で、己の腰に両手をあてる。
「はぁ……そんな顔して。これじゃ西村さんまで心配になるの当たり前か。よし響子、こんな時は愚痴るに限る! 今日は飲むわよ!」
 今日は酒を飲もうと宣言する友人の言葉に、一瞬響子は戸惑いを見せ、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめん、今日はそういう気分じゃ……」
「はいはい、反論は聞かないから。えっと、荷物はこれだけね。ほら行くよ」
 断ろうとする響子の声は聞こえないとばかりに、志保はデスクに置いてあった友人の私物を手に取り、響子の背中を押して更衣室へ向かった。
 更衣室で帰り支度をしている最中も、何度も友人からの誘いを断ろうとした響子だったが、彼女が何か言う度に、志保はその言葉を軽く受け流すばかり。
 最終的には、押し切られる形で志保の自宅のあるマンションへ向かった。



「はーい、上がって。散らかってるけど……そこは気にしない方向で」
「お邪魔、します」
 久しぶりに訪れた志保の部屋は、以前来た時とあまり変わっていない。響子はそんな印象を受けた。
 何故か志保の自宅で飲む事を勝手に決められてしまい、言われるまま彼女の後について来てしまった。
 響子は、ここへ来る途中、コンビニに寄って買ってきた酒やおつまみの入った袋をリビングのテーブルの上へ置く。
 そして自分の持ってきたバッグを一旦床に置き、コートを脱ぎ始めると、ハンガー片手に手を差し出す友人の姿が目に入った。ありがとうとお礼を言い、脱いだコートを志保へ手渡す。
 渡されたコートをハンガーに掛け、汚れないように離れた場所へ置いてくれる志保の姿を眺めながら、以前ここに遊びに来たのはいつだったかと考える。入社した当初は、互いの家でよく酒を飲んだりしていたが、ここしばらくは店で飲む事の方が多かったかもしれない。
 久しぶりに訪れたせいで、志保がマンションの駐車スペースを二台分借りている事をすっかり忘れていた。そのお陰で、乗ってきた自分の車を止める事が出来、響子はホッと胸を撫で下ろす。
 バッグを邪魔にならない位置へ移動し、そのままソファーに腰を下ろす。買ってきた物をテーブルの上へ出していると、志保がグラスを二つ手にし戻ってきた。
「はい、グラス。おつまみ用のお皿も出す?」
「ありがとう。お皿は別にいいんじゃない? 他に誰か来るわけじゃないでしょ?」
 グラスを受け取りながら、響子は買ってきたおつまみへ改めて視線を向ける。
 チョコレートは個別包装しているため皿は必要無い。他に買ってきた物も、袋を開け、そこから直に食べれば大丈夫だと彼女は判断した。
 響子の言葉に、それもそうかと頷いた志保は、テーブルの反対側へと移動し、テーブルを挟み友人と向かい合う形で、近くにあったクッションを敷いた床の上に腰を下ろす。
「それじゃ、かんぱーい」
「乾杯」
 互いにそれぞれのグラスに好きな酒を注ぎ、カチリとグラス同士を軽くぶつける。そのままグイッと、グラスに入っていた発泡酒を半分程飲んだ志保とは対照的に、響子は口内を潤す程度しかカクテルを口にしない。
 帰りは、運転代行のドライバーを頼めばいいから、酒を飲んでも大丈夫。そう友人は言っていたが、気分的に酔っぱらう程酒を飲みたいとは思っていない。今夜は、友人の気が済むように加減しながら付き合おうと、響子はここに来る車の中で考えていた。
 その後、二人で仕事の愚痴や、最近話題の映画など、様々な話をしつつ酒を飲み、気付けば飲み始めて一時間が経過していた。
「それでさー……一体何があったのよ」
「えっ?」
 つまみにと買ってきたポテトチップを頬張りながら問いかけられた友人の言葉に、響子はその意味を理解出来ず首を傾げた。
「えっ、じゃないでしょ。ここ一週間の響子の様子見てれば、誰だって何かあったって気付くよ。西村さんだって、水越さん大丈夫かしらって心配してたし」
「…………」
 友人の言葉に、響子は無言で眉を下げる。一週間に何度もミスを連発すれば、やはり誰でも違和感に気付くものなんだと、ここ一週間の自身の仕事ぶりを思い出し、小さく溜息を吐いた。
 志保の言っていた様子だと、きっと毎日同じ部署で仕事をしている社員達も、何かしら感じているのかもしれない。そんなに分かりやすい態度だったなんて、とこれまでの自分が恥ずかしくなる。
「何かあったんなら話聞くよ? 愚痴りたい時は、思いっきり愚痴って、お酒飲んですっきりするのが一番なんだから。まぁ……私なんかに愚痴るより、大好きな大好きな大樹さんに甘えた方が、響子的には幸せなんだろうけどさー」
「……っ!」
 発泡酒を飲みつつ、話を聞いてくれると言う優しい志保の言葉に嬉しさを感じたのは一瞬、彼女の口から発せられた夫の名前に、響子の中に熱いものがこみ上げる。
「……っ……グスッ」
 志保の口から零れた『大樹さん』という言葉だけでも、彼女の心を刺激するには十分すぎるものだったのかもしれない。まだ中身の入ったグラスを両手で握りしめ、響子は我慢出来ずに泣き出してしまった。
「えっ? ちょ……えっ? もしかして何かあったのって大樹さん絡みなの!?」
 突然泣き出した友人の姿に、志保は驚愕した様子を見せ、慌てて響子の隣へ移動する。そして、近くに置いてあった箱入りティッシュからティッシュペーパーを数枚抜くと、涙で濡れる友人の目元を優しく拭いた。
 響子と大樹が両想いになり、仲睦まじく生活していた事を知っている志保にとって、響子の涙は本当に衝撃的なものだった。
「大樹さん出張してるんだよね? あれか、まだ仕事忙しくて帰ってこないとか……淋しくなっちゃった?」
 志保の問いかけに、響子は未だ涙を流しながら友人の言葉を否定し首を横に振る。
「えー……っと、後は……喧嘩でもしちゃった? 謝るきっかけが無いから困ってるんでしょ」
 志保は必死になり、浅生夫婦の間に何があったかを推測するが、そのどれもが違うらしく、友人は彼女からの問いかけに首を横に振る以外の反応を見せない。
 困惑するばかりの友人に申し訳ないと思いつつ、響子は一先ず涙を止めようと、何度か深呼吸をし、必死に心を落ち着かせようと試みる。
 その後、少しずつ落ち着きを取り戻した響子は、自分を心配そうに見つめる志保の姿を目にし、心配かけてごめんね、と謝罪の言葉を口にした。
 そのまま、彼女はここしばらく自分の身に何が起こったのかを、順を追って友人へ話し聞かせた。
 嫌がらせの事も、大樹に離婚を切り出し別れた事も。そして今、自分はあのマンションを出て、格安ホテルで生活している事も全て話した。
「……あんた、馬鹿だよ。自分で何もかも背負い込んで。本当に馬鹿なんだから……」
 話を全て聞き終わった後、友人をこれでもかと力強く抱きしめ、まるで自分の事のように涙を流す志保の姿に、そんなにかな、と響子は力無く笑いながら小さな声で呟いた。



 日々は確実に過ぎていき、とうとう三月を迎えた。今までより気温が少し暖かく感じるようになった。このまま春になればいいな、などと考えながら、響子は会社の駐車場に止めた車を降りる。
『いくら安くたってお金は確実に消えてくでしょ。これからはここに寝泊まりしなさい』
 大樹と別れてから格安のホテル暮らしを続けていたが、志保にこれまでの事を打ち明けると、すぐに彼女の口から自分の家に泊まれと言われてしまった。
 友人の申し出を断る事も出来ず、その後響子は志保の家にしばらく世話になっていた。
 しかし、いくら友人とは言え、ずっと世話になるのも悪いと感じた彼女は、問題無いから大丈夫と言う志保の言葉を振り切るように、十日程前から再び格安ホテルに宿泊している。
 流石にそろそろ新居を探さなければいけない。そんな事を考えながら、響子は荷物の入ったバッグを持ち、会社のロビーへ向かった。
 今までずっとホテル暮らしを続けていた理由。それはもちろん、すぐに新居を探そうと、気持ちを切り替えられなかった事が大きい。しかしそれ以外にも、新居探しを始められない事には理由があった。
 新居が決まったとなれば、当然引っ越し作業が待っている。着替えや、必要最低限の物しか持たず、マンションから出てきてしまった響子。そんな彼女にとって、未だあの場所に置きっぱなしになっている私物は、ずっと気がかりになっていた。
 何度取りに行こうと思っても、一歩足を踏み出す事を躊躇してしまう。もし大樹に会ってしまったら、コンシェルジュ達に会い、何か怪しまれでもしたら。そんな不安が、彼女の足を、どんどんマンションから遠ざけていた。
 出社した社員達に混じり、響子もエレベーターに乗って自分の所属部署があるフロアへ向かう。
 置いてきた私物はきっぱり諦めてしまった方が良いのだろうか。それとも、覚悟を決めて取りに行った方が良いのか。グルグルと答えの無い迷路の中に居るような感覚に、頭が痛くなりそうだ。
 階数表示を確認し、目的階にエレベーターが到着した事を知った彼女は、人々の間を掻き分けフロアへ降りる。
「あ、響子!」
 こうなったら、志保に頼みこんで一緒について来て貰おうか。新たな対策を考えながら、更衣室へ向かおうと歩き出した響子の前に、今まさに脳内に思い浮かべていた友人が突然姿を現した。
「っ!? び、吃驚した……」
「ご、ごめん……驚かせて」
 思わず漏れた響子の心の声に、志保は申し訳なさそうに、自身の顔の前で両手を合わせ謝罪をする。
「……っ!? ちょ、志保!」
 考え事をしていた自分の方が悪い。そう言葉を返そうとする響子だったが、口を開き最初の一言を発しようとした瞬間、いきなり志保に右手手首を掴まれる。友人のいきなりの行動に、彼女は唖然とするばかりだ。
「って、こんな事してる場合じゃないの。後でちゃんと謝るから、とりあえずついて来て! 大変だよ、一大事よ!」
「……ちょっと、待って! 走らないで!」
 一息に捲し立てるような口調の友人に驚く暇も無く、志保に手首を掴まれたまま彼女の後に続いて響子は走り出した。大変だ、一大事だと言っていた友人の様子からして、本当に何か事件でも起きているのだろうか。
 情報整理が追いつかない状況のまま、志保に連れられてやってきた場所は、フロア内にある掲示板の前だった。
 この掲示板には、普段広報部が作ったポスターや社内通信などが貼られている。社員に対し何かを通知する時にも使われているが、響子は今までに片手で数えられる程しか目にしていない。
「志保……一体何なの」
 この場に連れて来られたという事は、何か自分達にとって悪い事でも起こっているのだろうか。隣に立つ友人に、響子は不安げな声で話し掛ける。そんな彼女の顔を見つめ、志保はある一点を指差した。
「あれ、見て」
 友人が指差す方向へ恐る恐る視線を向けると、掲示板に文字が印刷された白い紙が貼られているのが見えた。
「……人事に関するお知らせ?」
 見出しの言葉を読み、自身の中で増す不安を感じながら、響子は紙に書かれた文章を読み進めていく。そして、あるものを目にした瞬間、彼女は驚きのあまり言葉を失った。
 掲示板に貼られた一枚の通知。それは簡単に言ってしまえば、四月より、役員の中から選出した一人に副社長という地位が与えられるというものだった。
 普通の社員なら、別にそこまで驚く事は無いだろう。しかし、響子は違った。
 株式会社『With U』の役員の中から副社長に任じられた人物。その人物の名前を見た瞬間、これは自分の見間違いではないかと何度も瞬きをしたが、いくら確認しようともその文字が変わる事は無かった。
「あ、そう……だい、き」
 四月から副社長として社長をサポートしていく人物。そこには間違い無く『浅生大樹』と名前が記されていた。
 それだけでは無い。文章の最後には、これからも会社のために、社員皆と共に頑張っていきたいという願いが記載されていた。そしてその下に、社長と、四月より副社長として働く人物が並んで写っている写真がカラーで掲載されている。
 そこに写っているのは、間違い無く少し前まで生活を共にしていた大樹だ。所々癖が目立つものの整えられた髪、そして、すっかり家の中ではトレードマークになっていた無精ひげは綺麗に剃られていた。見た目は少々変わっていても、自分の夫だった人物、そして愛する人を見間違えるわけが無い。
 そして、響子を驚かせたのはそれだけでは無かった。
「誠司、さん?」
 大樹の隣に立っている人物にも、彼女は見覚えがあった。大樹とは大学時代からの友人で、自宅にも何度か遊びに来た人物。大樹の隣に立っているのは、間違い無く誠司だと響子は確信する。
 入社当時は、自分が勤める会社の社長の名前をしっかりと覚えていたが、日々の忙しさや生活に追われ、名前の事などすっかり忘れていた。しかし、代表取締役という肩書の隣に書かれた『藤原誠司』という文字を見た瞬間、彼女の中に記憶が蘇る。
 まさか、こんな事が本当に起こるのだろうかと、響子は目の前の現実を受け入れられずに居た。
 名前の響きだけなら、同じ名前の人が居るのか。名前の漢字だけなら、同姓同名の人が居るのかと考える事もあるだろう。しかし、文章の下に掲載された写真が、彼女に現実を突きつける。
 自分が勤めている会社の社長が大樹の友人で、副社長が夫だった大樹だなどと、すぐに信じる事は出来ず、響子は呆然と掲示板を見つめる事しか出来なかった。
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