契約書は婚姻届

32.答えとは

 元カノと遭遇としてしまうというアクシデントがあった翌日、響子は上司に連絡を入れ会社を休んだ。
「……っ!」
 体調不良のため会社を休む事を伝える電話を終えた直後、彼女は咄嗟に持っていた携帯電話をベッドの上へ乱暴に投げ、ある場所を目指し急いで自室を飛び出した。
「っ……はぁ……はぁ……ゴホッ、ゴホッ」
 それから数分後、駆け込んだトイレの中で、彼女は酷く疲れた様子座り込み、荒くなった呼吸を整える。
 昨夜から自分の身体に起きた体調変化は、一晩経っても治る事は無かった。激しい胃痛、幾度となく襲ってくる吐き気。既に胃の中は空っぽになり、吐きたくても吐くものが無い状態の彼女にとって、現在の状況はこの上なく苦痛でしかない。
 額に掻いた脂汗をパジャマの袖で拭い、フラフラの体に力を入れなんとか立ち上がる。
 そのまま、だるさの残る体を引き摺りキッチンにやってきた彼女は、水切り籠の中に入れっぱなしになったグラスを手に取った。
 水道の蛇口を捻り水をグラスに注ぐ。そして、そのまま水を口に含むと、軽く口の中を濯ぎ水を吐き出す。それを何度か繰り返したおかげか、口の中がすっきりし少し気分が落ち着いた。
「……はぁ」
 使ったグラスを軽く水で洗い、再び水切り籠の中へ戻した響子の溜息が、彼女一人しか居ないキッチン内に響く。
 昨日家に帰ってきてから、徐々に体調の変化には気付いていた。昼食を食べようにも、いつもより食欲は無く、軽めの物しか食べれなかった。体も怠く、行儀が悪いと思いつつどうせ自分しか居ないからと、午後はリビングでソファーの上に横になり、テレビを見ていた。
 夕食の時間になっても相変わらず食欲は無く、ほとんど食べる事が出来なかった。そして夜、決定的な身体の異変に響子は気付かされた。激しい胃の痛みと吐き気が彼女を襲ったのだ。
 慌てて胃薬を探したが、家中どこを探しても見つからなかった。吐き気が少し治まった時、薬を買いに行こうとも一瞬考えたが、またいつ吐き気に襲われるかわからない状況で、外出するのはあまりに危険だと判断した。
 コンシェルジュに助けを求めるか、救急車を呼ぶ事も考えたが、響子はまだそこまで大事おおごとにする状況では無いと、一人で耐える事を選んだ。
 しかし、一晩経っても良くなる気配はあまり感じられない。唯一の救いは、症状が悪化していない事だ。
 どうせ食べても結局は吐いてしまう。そんな気持ちが邪魔をし、響子は昨夜から恐怖心に負け一切食べ物や飲み物を口にしていなかった。先程のように、水で口内を潤す程度の事しか出来ず、睡眠不足と自身の身体を襲う苦痛に、彼女はすっかり疲れ切ってしまった。
『こんな事、大樹が知ったら泣いちゃうわね』
 ようやく呼吸が落ち着いたと思った瞬間、不意に頭の中に蘇る昨日の出来事。あの女の声、そして姿を思い出した瞬間、襲ってきた吐き気に、響子は思わず口元に手を当てる。既に吐くものが残っていないため、自身の手やキッチンの床を汚す事は無かった。
「…………」
 響子は、無言のままキッチンの床に座り込み、ぼんやりと木目が見える床を眺める。
 自分の体調が可笑しくなってしまった原因。確証は無いが、その原因に思い当たる所があった。
 昨日あの女と出会ってから自分の体調は悪くなっている。これはきっと精神的なもの、自分の心の弱さが原因だ。彼女はそう感じていた。だからと言って断定する事も出来ず、昨夜からの疲労が蓄積されているせいか、考える事も嫌になってくる。
「……前にも、胃薬無かったんだよね」
 もう一度、薬が無いか探してみようと思った時、響子の脳内にふとある記憶が蘇る。
『えっとさ……胃薬なんて、持ってない……よね?』
 響子が電車内で痴漢に遭った日だった。大樹と二人でハンバーガーショップで食事をし、帰宅した途端夫は慌ただしく胃薬を探し始めた。
 あの時、慌てて胃薬を買いに走った事を思い出した彼女の口に、小さな笑みが浮かぶ。こんな事になるのなら、もう少し量が多い胃薬を買っておけばよかった。そんな事をぼんやり考えながら、重い体を引き摺り再度立ち上がる。
 体調が悪くなった事を、夫である大樹に連絡した方が良いのではないかと考えなかったわけでは無い。
 しかし、現在出張中の夫に連絡を入れた所で、すぐに自分の元へ帰って来れない事は理解している。
 それどころか、仕事中であろう彼に余計な心配を掛ける事になる。そう考えると、大樹に連絡するという選択肢は、すぐに響子の中から消えていた。
 とりあえず、今は自室に戻り、ベッドに入って一眠りしよう。響子は、壁に手をつきながら体を支え、ゆっくりと移動を始めた。
 まだ胃の痛みが消えたわけでは無いが、先程よりは落ち着いている。昨夜はほとんど眠れなかった。そんな寝不足の状態で、薬を買いに行くわけにはいかない。今は少しでも眠り、起きてから体調が落ち着いた時を見計らい、今度こそ薬を買いに行こう。
 今後の行動について考えながら自室へ戻ってきた響子は、ベッドの上に放り投げたままだった携帯電話のランプが光っている事に気付く。誰かからメールが来たようだ。
 ゆっくりとベッドに腰掛けた彼女は、それに手を伸ばし、メールの内容を確認しようとボタンを押した。
『響子、その後お変わりありませんか? 仕事中の時間だろうに、急にメールを送ってごめんね。この前、電話で話した時に言いそびれてしまったんだけど、近々お父さんと一緒に、そっちに伺いたいと思っているの。浅生さんにもたくさんお世話になってるし、やっぱりきちんと顔を見て、再度お礼を言いたいって二人で話したのよ。だからその時、四人でどこか食事でも行かない? 前みたいに、あんな高い料亭には行けないけど……。二人の都合が良い日があったら、教えてもらえる?』
 メールを送ってきたのは、響子の母親である尚美だった。内容は響子達と一緒に食事をし、再度大樹に礼を言いたいという内容だ。
「っ……ひっ……グスッ……」
 メールを読み進めるうちに、何故か響子の瞳からは次々と涙が溢れ、止める事が出来なかった。そして響子は、涙を流しながら無意識に携帯電話を操作し、とある人物へ電話を掛ける。
『……もしもし? 響子? どうしたの、仕事中じゃ……』
「っ……お母さんっ」
 久しぶりに聞いた母親の声に、響子の瞳からは更に涙が溢れ出す。精神的にも、肉体的にも限界に達した彼女の緊張の糸は、自分を産み、育ててくれた母親の声を聞いた瞬間ぷつりと切れてしまった。



「たっだいまー」
 大樹が出張に出掛けてから一週間後の夜、ようやく彼は自宅へ帰ってきた。
「はぁ……疲れた、疲れた。本当に人使いが荒くて困る。……あれ? 響子ちゃん?」
 いつもなら、帰宅した自分をすぐに出迎えてくれるはずなのに、今日はいつまで経っても妻がやってくる気配は無い。その事に首を傾げながらも、大樹は履いていた革靴を玄関で脱ぎ、両手に荷物をたくさん持ったまま廊下を進んでいく。
「響子ちゃーん……どこに居る……あ、居た居たー。響子ちゃん、ただいま」
 何か手が離せない状況なのかと思い、妻が居そうな場所を順番に探していると、ダイニングルームで椅子に座る響子の姿を見つけ、大樹はゆっくりと嬉しそうに彼女の元へ近付く。
「もう、どうしちゃったの。電気もつけないで。こんな暗い所に居たら目が悪くなっちゃうよ」
 大樹は両手に持っていた荷物を床の上に置き、ダイニングルームの灯りをつけるため、壁際にあるスイッチを入れた。
「いっぱいお土産買ってきたんだよ。あっ! そうだ、そうだ。あのね、響子ちゃん実は……」
「……大樹さん」
 椅子に座っている響子の元へ再び近付きながら大樹は喋り続けた。しかし、小さくではあるが、急に自分の名前を呼ばれた事に気付き、すぐに彼は喋るのを止める。
「ん? どうしたの、響子ちゃん。俺が居ない間、何か困った事でもあった?」
 響子の様子に、何かいつもと違うものを感じ取った大樹は、優しい声で妻に話しかけ、彼女が座っている向かい側の席に座った。今二人が座っているのは、いつも食事の際に、それぞれが座る席でもある。
「…………」
 目の前に夫が座ったにも関わらず、響子は先程からまったく彼の方を見ようとしない。俯いたまま自分の手元ばかりを見つめている。
 そして、それから数秒、言葉を交わさない時間が続いた。この時、わずか数秒という時間を、響子も大樹も、まるで何倍も長い時間のように感じていた。
「……こ、れ……を……」
 響子は震える声でなんとか言葉を発し、ずっと手に持っていたであろうあるものを、ゆっくりとテーブルの上へ置いた。
 彼女が夫の目の前に置いた物、それは離婚届の用紙だった。もう既に、響子が書くべき所はすべて埋まっている。あとは大樹が記入を済ませ、それを役所へ提出すれば良いだけの状態になっていた。
 体調を崩した日、全てに限界を感じた響子は母親に助けを求めた。娘からの突然の電話に、母である尚美は驚きながらも、すぐにマンションへ駆けつけた。
 響子は買ってきてもらった薬を飲み、今までの事を全て母に打ち明けた。大樹を好きになった事、彼がどんなに優しい人なのか。そして大樹の元カノから嫌がらせを受けている事、偶然出会った男性に愚痴を零してしまった事、そして前日にあった出来事まで話した。
 嗚咽しながら、具合の悪さを我慢しながら、長い時間を掛けて彼女は全てを母親に話した。尚美は、そんな娘の話を辛抱強く聞き続けた。
『それで……響子はどうしたいの?』
 すべてを話し終わった後、母に促され響子は少しばかり眠った。そのおかげなのか、目を覚ますと、身体的にも、精神的にも、少し落ち着きを取り戻す事が出来た。そんな娘に尚美は静かに問いかけた。
 母親に話している最中、響子は頭の片隅でこれからの事を考えていた。これまでの出来事を母に話す事で、自分の中でも色々と整理が出来たらしい。
「…………」
 突然目の前に置かれた離婚届を、大樹は無言のまま見つめていた。
 響子が出した結論。それは、夫である大樹からも、そして自分の相談に乗ってくれたみずきからも離れるというものだった。
 大樹と別れる事で、今回の騒動の原因でもある大樹の元カノが良い思いをするのは悔しいが、このまま自分がこの場所に居続ければ、更に何か大変な事が起こってしまう気がして不安だった。
 大変な事態になる前に、それを未然に防がなくてはいけない。その方法は、自分がこの場から去る事だと、彼女は考えた。
 みずきに関しても、これ以上彼を巻き込んではいけない事は十分すぎる程解っていた。偶然の出会いで知り合った二人。それなのに、こちらの事情にどんどん彼を巻き込んでしまっている現状。
 みずきは新人とは言えモデルだ。芸能界で仕事をする彼は、スキャンダルを起こすわけにはいかない。それに、前回は彼の機転で誤魔化す事が出来たが、今後またあのような事が起こった場合、誤魔化せるかどうかなど分からない。
 モデルとして、これから華々しい世界で活躍する人を、個人的な事情に巻き込めない。彼とは今後、一切の関わりを絶った方が良い。
 響子は昨夜のうちに、みずきへ一通のメールを送った。
 嫌がらせの事を大樹に全て打ち明けたという事。今後は彼が対処してくれるから心配いらないという事。もう自分の事は心配しなくていいので、仕事を頑張って欲しい。
 勝手に巻き込んでおいて、こんな結果になってしまった事を、本当に申し訳なく思っている。そして、話を聞いてもらって本当に助かったし、心強かったと、みずきに対する感謝の気持ちをたくさん込めたメールだ。
 もちろん、問題が解決したなど響子が勝手についた嘘だ。問題は今も何一つ解決していない。すべては、みずきに心配を掛ける事無く、彼と距離を置くためのもの。
 響子自身、正直なこんな事はしたくなかった。大樹と別れる事は、彼女にとって相当勇気のいる事だ。大好きな夫と離れたくない。それが正直な気持ちだった。
 しかし、自分の気持ち以上に、自分のせいで大樹にこれ以上迷惑を掛けたくないという気持ちが、彼女の中で勝ったのだ。
「…………」
 何も言葉を発しない夫を不思議に思い、響子は様子を窺うように、視線をちらりと上にあげる。大樹は、何も言わずテーブルの上に置かれた離婚届を見つめていた。
 突然の妻の行動に、流石の大樹も怒るだろうか。もし理由を聞かれたら、もう正直に全て話してしまおう。これ以上隠す事は無理だし、本音を言ってしまえば、もう黙っている事に疲れてしまった。そんな気持ちが、薄らと響子の心の片隅に芽生える。
「……わかった。後で書いて、こっちで役所に出しておくから」
 その時、自身の耳に届いた夫の言葉に、響子は思わず顔を上げた。彼女の視界に、コートを着た夫の背中が映る。大樹は、自分がつい数分前まで持っていた荷物を再度持ち上げ、一度も妻の方を振り向かずダイニングルームから去っていった。
「…………」
 一人その場に取り残された響子は、すぐに現状を理解する事が出来なかった。ゆっくりとテーブルの上へ視線を向ければ、そこに先程自分が置いた離婚届は既に無かった。
 大樹が持って行ったのだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、今度はダイニングルームとキッチンを繋ぐドアへ視線を向ける。閉ざされたドアが、自分と大樹の間に現れた大きな壁のように感じてしまう。
 これでいいんだ、これが自分の望んだ結果なのだから。そう自分に言い聞かせるように、心の中で何度も言葉を繰り返す。
「……うっ……グスッ……」
 どうして、と理由を聞いて欲しかった。別れたくない、そう言って欲しかった。自分勝手な願望がどんどん大きくなり、響子の頬をますます濡らしていく。
 自分から別れを切り出しておいて、ひき止めてくれるのを期待するなんて馬鹿馬鹿しすぎる。頭では理解していても、期待しない事など出来なかった。
「……わかって、る……けど……さぁ……。うわあああん」
 たった一人残された自宅で、響子は大声で泣く事しか出来なかった。
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