契約書は婚姻届

31.言葉という凶器

 自分を送ってくれたみずきに礼を言い、その場で彼と別れ帰宅しようとした響子の目の前に現れたのは、彼女に対し嫌がらせを続けるあの女だった。
「……あ……っ」
 どんどんこちらへ近付いてくる女の姿に、響子は壊れたロボットのように体を固くし声を震わせる。
 この場から逃げ出したいという気持ちがどんどん強くなっていく。しかし、そんな彼女の思考とは反対に、響子の足は震えはじめ、その場に立っているのが精いっぱいの状況だ。
 右手に意識を集中させ、震えるその手をどうにか下ろす事が出来た。先程から気になるのは、右手人差し指にうずく様に感じる痛み。その場所は、あの時カッターの刃で怪我をした場所と同じだと、混乱する脳内の片隅で理解した。
「久しぶりね」
 響子達に近付いてきた女は、口元に笑みを浮かべ親しげな口調で話し掛けてくる。彼女の声を耳にした瞬間、右手人差し指の痛みが更に強くなった。響子は咄嗟に、指全体を庇うように右手に力を入れ握りしめる。
 カッターの刃によってつけられた傷はすっかり治っているのだから、今更痛みなど感じるはずはない。この痛みは幻だ。頭ではわかっているのに、響子は実際痛みに顔を顰めた。
「貴女……大樹に何か告げ口でもしたの?」
「……えっ?」
 突然女から自分へぶつけられた質問に、響子はすぐ反応出来なかった。大樹に告げ口をしたかどうか。その内容は、目の前に居る女が自分へ行っている嫌がらせの事だろう。響子はそう結論を出した。
 響子は、そんな事はしていません、と小さな声で返答する。自分ではいつも通りの声を出したつもりなのに、耳に届いた自身の声の小ささに、彼女は情けなさを感じ目を伏せた。
「だったら、どうして私が追い返されなきゃいけないのよ! 前までは……中に入れてたのに……」
 響子の反応に苛立ったのか、女は感情的に声を荒げる。しかし、それも数秒。今度は悔しげな表情を浮かべ、ポツリと独り言のように小さく言葉を呟いた。
 悔しさからなのか、苛立った様子で綺麗にネイルの施された爪を噛む彼女の様子を、響子は呆然と見つめる事しか出来ない。
 前までは中に入れたのに追い返されたと彼女は言った。そして先程、響子に対し、大樹に告げ口したかどうかを聞いてきた。悔しがり、苛立ちを見せる目の前の女の様子。
 次々と起こる予想外の出来事に対応する事が出来ず、響子の思考は、現状を理解するまでには追いついていない。
「……その男……まさか貴女、浮気してる?」
 その時、不意に届いた女の声に、響子は反射的に顔を上げた。その視線の先には、ニヤリと嫌な笑みを浮かべる女が居た。
 たった今耳に届いた言葉、そして彼女の表情。すぐ傍に居るみずきに目をつけたのだと、響子は即理解した。
「ち、違います! 彼とは別にそんなっ!」
「あらあらあら。そんなに慌てて、まさか本当に浮気?」
 慌ててみずきとの関係を否定した響子だったが、その行動は逆効果と言っていいものだった。その様子を見た女は、更に笑みを深め、驚いたとばかりに口元を手で覆う。
 みずきと浮気などしていない。そんな関係では無いと必死に否定しているのに、その態度が逆に、誤解した事が真実だと女に印象付けてしまった。
「さっさと別れないばかりか、大樹に黙って男と会ってたなんて。こんな事、大樹が知ったら泣いちゃうわね。あぁ、大樹が可哀想……」
 まるで自分が響子に勝ったとでも言いたげに、急に自信を取り戻した口調になる。そんな女の言葉が、いくつもの矢になって響子へ向け放たれた。
「ちが……っ」
 違う。その一言を力強く言い切ってしまいたい。ここが外だという事を気にせず、大声を出し、怒鳴り散らせればどんなにいいだろう。
 しかし、その思いとは逆に、響子の声は弱々しく、震えるばかりで、たった三文字の言葉すらも満足に発せられない。
 その理由は、みずきと自分がまったく無関係では無いと理解していたからだ。
 もちろん、彼と浮気関係になどなった事は無い。しかし、大樹が出張に行っている今、時間潰しの相手をするためとは言え、実際にみずきと会って話をした。
 響子がみずきと出会った事を、もちろん大樹は知らない。夫に内緒で、他の男性とメールをやりとりしたり、会って話をしていた。その事が、今になって響子を苦しめる。
 みずきとは単に知人という関係で、少しばかり愚痴を聞いてもらっているだけ。やましい事など何一つ無い。
 冷静に考えれば何も問題は無いが、突然目の前に現れた大樹の元カノ、その女が発した言葉など、今の響子は冷静な判断が出来ない程混乱し、一体どうすれば正しいのかと戸惑うばかりだった。



「あのー……」
 その時、女達の耳に届いたのは、まるで二人の様子を窺うような男の声だった。
 響子達の視線が、一気に声が聞こえた方へ向けられる。そこに居たのは、今まで黙って二人のやりとりを見聞きしていたみずきだった。
「えっと……あの、大変盛り上がってる所申し訳ないんですけど……」
 彼は、眉を下げ申し訳なさそうな顔で、弱々しい声を発しながら二人の会話へ割り込む。
「えっと、そちらのお姉さん」
 そして大樹の元カノの方へ視線を向けたみずきは、彼女の事をお姉さんと呼んだ。
「こっちのお姉さんと俺が浮気してる、的な会話の流れになってますけど……全然違いますからね?」
「違うって……だってこの女、何も言い返さないじゃない」
 みずきが、自分と響子は浮気をしていないと否定の言葉を口にすると、大樹の元カノは苛立った様子で響子を指差し口を開いた。
 響子とみずき、その両方から否定されても、二人は浮気をしているという状況がすっかり彼女の中で出来上がってしまっている様だ。
「言い返さないのは、きっと突然の事に吃驚してるだけですって。だって……」
 見ている方も力が抜けるようなへらりとした笑みを浮かべたみずきは、一旦言葉を切ると、響子達それぞれに一瞬視線を向けた。そして再びゆっくりと口を動かす。
「だって俺……この人に道聞いてただけですよ?」
「はぁ!?」
「……えっ」
 みずきの口から告げられた言葉、そして彼の平然とした態度に、大樹の元カノは目を大きく見開き、とても驚いた様子だ。
 響子も、突然のみずきの発言に驚きを隠せないのか、小さく声を上げ彼の顔を凝視している。
「いやー。実は俺、この辺来るの今日が初めてで、道に迷っちゃったんですよ。それで、目的地についてこのお姉さんに聞いてただけなんですけど。なんか……色々と誤解させてしまったようで、お二人にはご迷惑かけちゃいましたね、すみません」
 申し訳なさそうな顔をしたみずきは、響子達に向かって謝罪の言葉を伝えると共に、深々と頭を下げる。
 突然のみずきの行動に、響子は呆然と彼を見つめる事しか出来ない。彼が道を聞いてきたなんて嘘だ。何故わざわざ、みずきはこんな嘘をついたのだろう。響子の中に、また新たな疑問が次々と増えていく。
「ま、紛らわしい事してるんじゃないわよ!」
 その時、耳に届いた女のヒステリックな声に驚き、慌てて視線を彼女の方へ向けた。響子が目にしたのは、顔を真っ赤にし、全身をプルプル震わせながら立っている大樹の元カノの姿だった。
 そして彼女は、そのままくるりと体の向きを変えると、足早に響子とみずきの前から立ち去って行った。響子は、たった数分間の間に起こった出来事に呆然と立ち尽くす事しか出来ない。
「勝手に勘違いしたの、そっちでしょーが」
 女の姿がすっかり見えなくなった路地を見つめていた響子は、隣から聞こえてきた声に我に返り、すぐにそばに居るみずきの方へ顔を向けた。
 彼女が見たのは、ペロリと舌を出し、嫌悪感を丸出しにするみずきの姿。彼は響子の視線に気付いた瞬間、すぐにいつもの笑みを浮かべ、両腕を自身の首の後ろへ回す。
「えへへ、嘘ついちゃった。普段、俺なんて言い慣れてないから、変じゃないかなーってちょっとドキドキだったよ。ごめんね突然。響子さんも吃驚したよね」
 今度は先程より小さく舌を出し、まるで悪戯が見つかった子供のような発言を口にする。
 みずきのその姿に、響子は怒るでも呆れるでもなく、苦笑するしかなかった。咄嗟にみずきがついた嘘。それは響子にとって驚かずにはいられない事だった。しかし、それと同時に、あの状況から自分を救い出してくれたであろう彼に、心の底から感謝した。
 しかし彼女は、自分の心の中に、先程女から浴びせられた言葉の数々が鋭い棘になって深々と突き刺さっている事を感じずにはいられなかった。
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