契約書は婚姻届

30.負の連鎖は続く

「え……あの、今なんて?」
 響子が夫と共に朝食を食べている時の事だった。大樹が不意に発した言葉が衝撃的すぎたのか、彼女は驚きのあまり、口に運ぼうとしていた漬物を箸に挟んだまま動きを止めた。
「明日から……五日か、長くて一週間くらいかな。ちょっと帰ってこれそうにないんだよね」
「それは……その、出張って事ですか?」
「うーん、多分そんな感じ。あちこち行かなきゃいけないから」
 突然夫から告げられた一週間の出張という言葉。それを聞いた響子は食事をする手をピタリと止め、自分の目の前に座り眉を下げる彼の顔を凝視するしか出来なかった。
 一週間の出張。様々な所へ行かなければいけない夫。それが、仕事のためなのだと、仕方ない事なのだと、彼女はゆっくり理解していく。しかし、それと同時に感じたのは言葉では言い表せない程の寂しさだった。
 一週間もの間、大樹の顔を見る事が出来ない。この家に帰ってきても彼は居ない。次第にその現実が、じわりじわりと響子の心に不安の色を濃くしていく。
「……一週間なら荷造りとか大変ですよね。私に何か手伝える事あります?」
「大丈夫だよ、必要最低限の物しか持っていかないから。それに、響子ちゃんは仕事あるんだから。俺の事は気にしなくていいよ」
 自分の心に芽生えた不安を隠すように、響子は、何か自分に手伝える事は無いかと夫に尋ねる。しかし大樹は大丈夫だと言って、妻の申し出をやんわり断った。
 そして次の瞬間、何故か彼は、椅子から腰を軽く浮かすと、目の前に座る響子の頭を撫で始める。
「……え、あの」
 突然頭を撫でられた事に戸惑いを見せる彼女の様子に、大樹は目を細めながら小さく、ありがとう、と感謝の言葉を呟く。
「…………」
 まるで小さな子供の頭を撫でるようなその手つきに、文句の一つでも言ってやろうかと思った響子だが、目の前で微笑む夫の様子に、結局何も言う事は出来なかった。



 大樹が出張へ出掛け、既に二日が経過した。この日、響子は仕事終わりに、友人であり同僚でもある志保と共に少しばかり酒を飲み、いつもより遅い時間に自宅のあるマンションへ帰ってきた。
 帰宅後、軽くシャワーを浴びて着替えを済ませた後、濡れた髪を拭きながらリビングへやってきた彼女は、テレビの電源を入れソファーに腰を下ろした。
「……ん?」
 持ってきたドライヤーで髪を乾かした後、ぼんやりとテレビを見ていた響子は、ふとローテーブルの上に置いていた携帯電話のランプが光っている事に気付いた。
 ランプが青色に光るという事は、メールを受信したという事だ。彼女は携帯電話へ手を伸ばし、誰からメールが送られてきたのかを確認する。
「あ……」
 受信したメールを開封し、送信者欄の名前を見た瞬間、一瞬だけ彼女の動きが止まった。
『響子さん、こんばんは。今日もお仕事お疲れ様。僕は、今丁度雑誌の撮影が終わりました。今日も色んな服を着たんだ。お昼からずっと着せ替えごっこ状態だったよ……』
 所々絵文字や顔文字を使った楽しいメール。その送り主は、以前喫茶店で愚痴を零してしまった人物、新人モデルのみずきだった。
 あの日、自分の連絡先を記した名刺を残し、みずきは喫茶店を後にした。慌てて彼を追いかけようとした響子だったが、レジカウンターへ辿りついた時、既に彼の姿はそこに無かった。
 先程まで一緒に居た相手が、芸能事務所に所属しモデルをしている事を自分宛てに渡された名刺で知った響子は、慌ててみずきにメールを送った。
 その内容は、初対面の相手に対し愚痴を零してしまった事、そして愚痴を聞いて貰っただけではなく、結果的に二人分のドリンク代金を支払わせてしまった事に対する謝罪だ。そして、ドリンクの代金を返したいという事も伝えた。
 響子が送ったメールへの返事は、その数時間後に返ってきた。
 愚痴を聞いた事、そしてドリンクの代金を支払ったのは、自分が勝手にした事だから心配しなくていいという内容だった。
 帰り際に、愚痴りたくなったら連絡をして欲しいと言った事も、からかいや嘘では無く自分自身の本心である事。少しでも愚痴を零して、響子の気が楽になれば嬉しいという事も書いてあった。
 みずきに対し、これ以上迷惑を掛けられないと、彼女はその申し出を何度も断ろうとした。しかし、彼の巧みなメールの文面を見てしまうと、ついつい律儀に返事を返してしまったり、少しばかり愚痴を零してしまったりと、初めてメールを送ってから現在まで、二人のやりとりは続いていた。
 このままではいけない。響子自身その事は理解していた。理解していても、みずきから送られてくるメールは、どれもあたたかい温もりの籠ったものばかりで、ついついそれに甘えてしまう。
 みずきと自分との間には、越えてはならない境界線のようなものが存在している。しかし、本気で自分の事を心配し、親身になって相談に乗ってくれるみずきという存在は、精神的に疲れてしまった響子の心に容易く入り込んできた。
「……これでいい、かな」
 みずきから届いたメールに、特に当たり障りのない内容の返信をする。面白味の無い返事しか返せない自分とのメールのやりとりは、あの人にとって楽しいものなのだろうか。ふとそんな事を考える。
 この行動は、響子の中にわずかに残った自制心とも言えるものだ。
 彼女の方からみずきへメールを送ったのは、最初の一度きり。その後は全部、みずきから送られてきたメールに返信するばかりだった。そして返信の内容は、あまり自分の感情を表に出さないように気を付けている。
 そんな自分とのメールが億劫になり、みずきがメールのやりとりを止めるのであればそれでもいい。
 優しい言葉が詰まったメールに、つい返信してしまう自分。溜め込んでいた気持ちを愚痴にしてしまう自分。みずきとのやりとりを絶つ事が出来ない自分。
 響子は、みずきへの返事を送った後、必ずと言っていい程自己嫌悪に陥る。みずきに甘える事無く、もっとしっかり自分の気持ちをコントロール出来れば、どんなに良いだろう。
 夫に迷惑を掛けたくないという口実を作り、大樹に今自分の置かれている状況を説明出来ていないだけではなく、そこまで親しくも無いみずきに迷惑を掛け続けている。そんな己に甘すぎる自分が、響子は心底嫌いだった。
「…………」
 ソファーから立ち上がりテレビの電源を消す。そして、自分が持ってきたドライヤーや携帯電話などを持ち、リビングの灯りも暗くすると、響子はそのまま自室へ足を向けた。
 このまま起きていたら、また余計な事を考え気分が沈んでしまう。こういう時は早めに寝てしまうのが一番だ。
 自室へ到着した彼女は、手に持っていた荷物を片付け、すぐにベッドへ潜り込む。
「……大樹さんの匂い」
 枕に顔を沈めれば、ベッドから微かに感じる夫の匂い。元々は自分用のベッドだったはずなのに、最近では自分の匂いより、夫の匂いの方が染みついている気がする。妙に安心してしまう匂いに、響子の心は一時穏やかさを取り戻す。
 しかし、すぐに彼女の心を支配するのは負の感情だった。
 この場に大樹が居ない。まだ言われている期間の半分も過ぎていないのに、既に響子の心は寂しさでいっぱいだった。
 時間を見つけては送ってくれているであろうメール、たった数分でも夜に掛けてくれる電話。自分が居ない事で、妻が心細くないようにと気遣いを見せる大樹の気持ちが嬉しかった。
 メールを貰った瞬間、電話が掛かってきた瞬間、響子の気持ちは自分が思っている以上に上昇している。しかし、その分、自分は今家に一人なんだと実感した時の淋しさが辛い。
 この家に越してきた当初も、ここには自分一人だけしか住んでいないのではないか、そんな感覚を味わっている。しかし、その頃と今とでは、一人になった時に感じる孤独感の強さはまったく違っていた。
 あの頃と今とで感じる孤独感が違う理由。それは、大樹というぬくもりを知ってしまったから。
「……っ」
 不安、孤独、寂しさ、苛立ち、自分の中でぐるぐると渦を巻くように次々と湧き上がる気持ちを感じながら、響子はその場に居ない夫のぬくもりを求め、枕を抱きしめながら眠りについた。
 無意識に目から零れた雫は、彼女が抱きしめる枕の上にゆっくりと流れ落ちた。



 その翌日、会社が休みだった響子は、とある人物と喫茶店で話をしていた。
「えっ、それじゃ今彼氏さん出張中なの?」
「……うん」
 響子が数十分前から話をしている人物。それは、最近メールのやりとりをしているみずきだ。
 何故二人が一緒に喫茶店に居るのか。その発端は、今朝響子の元に届いた一通のメールだった。
『響子さん、今日って仕事お休み? 僕は今日もお仕事だよ。それでね、仕事と仕事の間に空き時間が出来そうなんだけど……お願い、暇つぶしに付き合って!』
 このメールを読んだ時、響子はもちろん驚いた。最初は断ろうとしたものの、これまで自分が散々みずきに対し迷惑を掛けている事実に気付く。
 自分は相手に迷惑を掛けているのに、向こうからの頼みを断るなど、彼女には到底出来なかった。
 それに、今日は特に外出予定は無く、みずきからのメールが無ければ一日中家の中で過ごす予定だった。一人家で塞ぎ込んでいるよりは、誰かと話していた方が気が紛れる。
 自分を頼ってくれたみずきには申し訳ないが、彼からの申し出を利用させてもらう事にしよう。そんな気持ちもあり、響子は彼の暇つぶしに付き合う事を承諾した。
 みずきが待ち合わせ場所として指定してきたのは、二人が初めて出会った喫茶店だった。指定された時間より少し早めに到着した響子は、飲み物を注文し彼が来るのを待った。約束の時間を五分程過ぎた頃、ようやくみずきが喫茶店へ姿を現した。
 メールでのやりとりを続けてはいるものの、実際に顔を合わせるのは今回が二回目のため、互いに少し緊張しているようだった。しかし、人懐っこいみずきの喋りに、徐々に響子の緊張は解れていく。
 最初は軽い雑談をしていたが、互いの近況を話しあっているうちに、響子は大樹が現在出張中である事をみずきに伝えた。
「それは心細いね。早く彼氏さん帰ってくればいいのに……っと」
 みずきが話している最中、急に彼は自身が穿いているズボンのポケットを探るような仕草を見せる。そこから取り出した携帯電話は、低いバイブ音を立て、ブルブルと細かく振動していた。
「もう三十分前か、早いな」
 携帯電話の画面を見つめながら、ポツリと彼が呟く。どうやら、時間を知らせるために携帯のアラーム機能か何かをバイブモードに設定していた様だ。
 次の仕事が始まるまであと三十分程だという事は、そろそろ自分は家に帰った方がいいだろう。響子は帰宅する準備を始めようと、椅子から立ち上がり椅子の背に掛けていたコートを手に取ろうとする。
「ねぇ、響子さん。響子さんってこれからどうするの?」
 その時、今まで携帯電話を見つめていたみずきが顔を上げ、いきなり響子に話し掛けてきた。
「家に帰ろうかなって。洗濯もしなきゃいけないから」
「そっか。家って、ここから近い?」
「うん……近い、かな」
 この喫茶店から、歩いて五分程の距離にあるマンションを思い浮かべながら、何故みずきは急にそんな事を聞いてくるのだろうかと、響子は不思議でならなかった。
 響子の家が喫茶店から近い事を知ったみずきは、ファンの女性達が見たら悲鳴を上げるのではと思う程、満面の笑みを浮かべた。



「本当に良かったの? みずき君だってこれから仕事だし、忙しいんでしょ?」
「大丈夫大丈夫。響子さんを家まで送るくらいの時間はあるから」
 喫茶店で響子の自宅について質問した後、何故か自分が響子を家まで送り届けるとみずきは言い出した。
 距離的に近いのならば問題無い。いくら明るい時間帯とは言え、響子を一人で家に帰すのは不安だ言い続ける彼の様子に、響子は苦笑するしか無かった。
「私なんかと歩いてて……本当に大丈夫? みずき君の仕事に影響するんじゃ」
「もう、本当に響子さんは心配性だね。ちゃんと変装してるから大丈夫だってば」
 一般人である自分と、新人とは言えモデルの仕事をしているみずきが一緒に居る所を誰かに見られてしまったら。そう心配する響子の姿を、みずきは軽く笑い飛ばす。
 本当に大丈夫なのだろうかと少々不安になりながら、響子は歩くスピードを落とし、ゆっくりと立ち止まった。そしてそのまま、隣に立つみずきの方へ体を向け、自分よりほんの少し背の高い彼を見上げる。
「みずき君ありがとう。もうここで大丈夫だから」
「えー、もう? 家の前までちゃんと送るよ?」
「本当に大丈夫だから。角を曲がると大きな通りに出るし、そこから歩いてすぐだ、から……っ」
 自宅は本当にすぐ近くにある事を説明するため、響子が数メートル先にある十字路を指差しながら説明し始める。そして自身の進行方向を右手で指差しながら、同じ方向に顔を向けた瞬間、彼女は突然口を閉ざした。
「ねぇ、ちょっとどうかした……ん?」
 数メートル先にある十字路を指差したかと思えば、突然口を閉ざし動きを止めてしまった響子。目を見開き、ある一点を見つめる彼女の様子に疑問を持ったみずきは、響子が指差す先へ視線を向ける。
 響子が指差す先に見えるのは人影だった。それはだんだんと響子達の方へ近付いてくる。その人影は女性だと認識したみずきは、響子に知り合いなのか訊ねるため、再度彼女の方へ顔を向けた。
 しかし、響子の顔はみるみる青ざめていき、空間を指差している指先は小刻みに震え始めた。そんな彼女の様子に、ただ事では無い状況だと感じ取ったみずきは、再び近付いてくる女の方へ視線を向ける。
 響子達の元へゆっくりと近づいてくる女。その女の正体が、響子に嫌がらせの手紙を送っている張本人であるという事を、この時みずきはまだ知らなかった。
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