契約書は婚姻届

29.ガールズトーク

『自分の中に溜め込むより、誰かに話すだけでも、少しは気分が変わるかもしれませんよ?』
 一人で家に居る事が嫌になり、気分転換にとやってきた喫茶店。相席を頼まれ、そこで偶然出会った男の言葉に、響子の心は揺れた。
 初対面の異性に自分の悩みを打ち明ける。普通の人なら、軽々しくそんな行動はとらないだろう。響子も、普段なら決してそんな事をしようなど考えもしないはずだ。
 しかし、気丈に振舞っているものの、彼女の精神状態は限界ギリギリまで削られていた。一瞬たりとも気の抜けない生活を続けていた響子にとって、優しい男の言葉は、正直とても嬉しかった。
「……実は」
 結局、響子は初対面の男に自分の悩みを打ち明けてしまった。それでも、彼女の中にある理性が働いたためか、全てを正直に話す事はせず、出来る限り嘘をついたり、誤魔化したりしながらの相談になった。
「つまり、彼氏の元カノに嫌がらせをされてて、それで悩んでたわけですか。それにしても、嫌がらせの手紙が届くって……探偵でも雇ってるのかな」
「…………」
 響子の話を聞いた男は、腕組みをしながら聞いた内容を整理し、何やら一人で考え込み始める。その様子に、彼女は言葉を発する事は出来なかった。
 大樹との関係を、旦那ではなく彼氏と偽り、嫌がらせの手紙の送り主でもある女と、一度だけではあるが、面識がある事は言わなかった。
 響子から与えられた情報を整理した男は、どうやら、手紙の送り主が探偵を雇い、響子の事を調べていると考えたらしい。
 大樹が暮らしているマンションで一緒に住んでいる事も話していないため、女が響子の住所を探偵に調べさせ、手紙を送ってきたと考えた様だ。
「その事、彼氏さんには言いましたか?」
「……いいえ、言ってません」
 男の問い掛けに、響子は首を横に振り、大樹にはこの事を相談していないと伝える。
「言ってないって……。早く言った方がいいですよ。しっかりと相談して、彼氏さんの方から、もうそんな事するなってガツンと言ってもらえばいいじゃないですか」
 彼氏に相談していないと返した響子の答えに不満があるのか、男の声に少しばかり苛立ちの感情が混ざる。
 男の言っている事は正しい。それを実行すれば、すぐにでもこの嫌がらせは無くなる。流石に、響子もその事はわかっていた。
 夫が過去に付き合っていた女性から嫌がらせを受けていると言えば、きっと大樹は何かしら行動を起こしてくれると思う。そう思いながらも、彼女は今まで誰にも相談せずに過ごしてきた。
 響子がそうしてきた理由はただ一つ。夫にこれ以上迷惑を掛けたくないという気持ちからだった。
 既に問題は解決しているとは言え、元々自分は夫に借金を肩代わりしてもらった身。そして、一緒に生活をする中で、今まで何度も大樹に助けられてきた。
 しかも、夫の仕事は今まで以上に忙しい様子だ。そんな状態で、これ以上夫の負担になる事はしたくない。
 彼氏には相談した方がいいと言ってくれた男の言葉は、素直に嬉しかった。しかし、そんな彼の意見を聞いても、響子の中で気持ちが変わる事は無い。
「……はぁ。……っと、ちょっと失礼します」
 自分の言葉に、頷く事も反論する事も無い響子の姿に、男は深いため息を吐く。
 その時、突然携帯電話の着信音が鳴った。それに反応した彼は、響子に断りを入れると、自分のバッグから携帯電話を取り出した。
「はい、もしもし。あぁ、えっと……今ちょっと近くの喫茶店でお茶してて。え? 時間早くなったんですか? わかりました、今から戻ります」
 通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた彼は、すぐに電話を掛けてきた相手と話し始める。そして、一分も経たないうちに電話を切ると、申し訳なさそうに響子へ視線を向けた。
「すみません、もう戻らなくちゃいけないみたいで。話聞くって言ったのこっちなのに……」
「そんな、謝らないでください。私の方こそ、あまり気分のいい話じゃないのに、相談に乗ってもらっちゃって……。本当にありがとうございました」
 ペコリと頭を下げ、男に感謝の言葉を伝える響子。男はそんな彼女の姿を目にし、僅かに苦笑するとバッグを膝の上に置いた。
 そして、中から小さい紙のような物とボールペンを取り出し、何やら文字を書いていく。書き終わるとボールペンをバッグの中に戻し、外していたマスクを装着し立ち上がった。
「これ、僕の名刺です。携帯の番号とアドレス書いたので。また愚痴りたくなったら、電話でもメールでもいいんで、連絡してください」
 それじゃ、と男は軽く頭を下げると、自分と響子の注文が書かれた伝票を持ち、さっさとその場から立ち去っていく。
「えっ!? ちょ、ちょっと!」
 突然すぎる男の行動に驚き、しばし呆然としていた響子だったが、慌てて彼の後を追いかけようとするも、彼女が会計用のレジカウンターへ辿り着いた時、既に男の姿は無かった。
 初対面だというのに愚痴を聞かせる事になってしまい、自分が注文していたドリンクの代金まで払わせてしまった。
 情けないと落ち込みながら先程座っていたテーブル席へと戻った響子は、ふと男が置いていった名刺がテーブルの上へ裏返しに置かれている事に気付いた。
 携帯電話の番号と、メールアドレスを書いたと彼は言っていた。今から電話を掛けて、ドリンクの代金だけでも自分に払わせて欲しいと頼んでみようか。
 既に支払われてしまったお金を返すために連絡しようと、響子はテーブルの上に伏せるように置かれた名刺を手に取る。
 そして彼女は、自分が手にした名刺を見た瞬間、驚きのあまり声をあげたくなる気持ちを必死に我慢した。
 喫茶店の店員に相席を頼まれた事がきっかけで出会い、愚痴を聞いてもらった相手。つい先程まで話していた人物が、まさか芸能事務所に所属するモデルだとは思いもしなかった。



 それから数日後。午前中の仕事を終えた響子は、持参した弁当を持ち会社内にある食堂へ向かった。
 いつもは志保と一緒に昼食を食べる事が多いが、まだ仕事が残っているから先に食べていて欲しいと本人に言われてしまったため、響子は一人食堂へ足を向けた。
 彼女が務めている株式会社『With U』には、社員達のためにと社内に食堂スペースがある。メニューの種類が多く、低価格で食事が出来ると、社員達の人気は高い。響子のように、持参した弁当を食堂スペースで食べる社員も少なくは無かった。
 食堂スペースに着くと、そこには既にたくさんの社員達の姿があった。仲の良いメンバーで雑談をしながら食事をする人達も居れば、一人で何やら資料の束を片手に食事をしている人も居る。
「えっと……」
「……水越さん!」
 どこか空いているいる席は無いかと、周囲を見回しながら食堂内を歩いていると、不意に自分の名前を呼ばれた気がした。その場で立ち止まり、辺りを見回す。すると、自分の方へ向かって手を振る女性社員の姿を見つけ、響子は彼女が座る席へ近付いた。
西村にしむらさん、お疲れ様です」
 響子に声を掛けてきたのは、同じ総務部で仕事をしている西村にしむら恵利子えりこという先輩の女性社員だった。西村は響子にとって先輩であり、まだ入社したばかりの頃は、志保と共に仕事に関する事を教えてもらっていた。
「お疲れ様。あら? 今日は伊藤さんと一緒じゃないのね」
 いつも響子と志保が一緒に居る事を知っている西村は、自分の後輩がその場に一人居ない事に気付き、首を傾げる。
「まだ仕事が残ってるみたいで。先にお昼にしてって言われたんです」
「そうだったの。もし良かったら、私達と一緒にお昼食べない? 二人共、いいかしら?」
 一緒に食事をしようと響子を誘った西村は、同じテーブルについていた他のメンバーに確認を取る。視線を逸らせば、西村の他に、同じ部署で働いている後輩の女性社員が二人座っていた。響子も何度か話をした事があるため、彼女達の名前と顔を覚えている。
「もちろんです、どうぞどうぞ」
「伊藤先輩も、仕事が終わったら合流出来ればいいですね」
 後輩達の歓迎を受け、一人での昼食もつまらないだろうと思った響子は、三人にお礼を言いながら空いている西村の隣の席へ座った。
「あ、そうだ。貴方達、頼んどいた書類はそろそろ出来た?」
「もちろん出来てますよ」
「西村先輩、心配し過ぎですよ。私達だって、ここで働き出してもうすぐ一年なんですから」
 不意に、西村が思い出した様子で後輩二人に仕事の話題をふる。すると、後輩達は西村の言っている書類は既に出来ていると、少しばかり自慢げに答えた。
 西村はいつも、新入社員として同じ部署に配属された後輩達の指導をしている。響子は、自分が入社してからの姿しか知らないが、彼女の中で西村はすっかり頼れる指導者というイメージが出来上がっていた。
 いつも後輩の指導ばかりで大変ではないかと、以前響子と志保の間で西村に関し話題になった事がある。先輩を心配する響子達だったが、西村にとってそんな心配などまったくと言って良い程必要なかった。
 新入社員の指導係という立場について、西村本人は悩んだりする様子は無く、むしろ楽しんでいるようにさえ感じられた。他人に教えるという事が性に合っているのか、彼女自身今の仕事に不満は無いようだ。



 その後、しばらく談笑しながら昼食を食べ続けた。そして、ふと思い出したかのように、後輩の一人が隣に座る同僚へ視線を向け口を開いた。
「そう言えば……そろそろ雑誌の発売日とか言ってなかった?」
「えへへ。実は、今朝会社に来る前にコンビニで買ってきたんだ」
 話し掛けられた女性社員は、嬉しそうに頷くと、傍に置いてあった自分のバッグを膝の上に置き、中から一冊の雑誌を取り出しテーブルの上へ置いた。
「これ……ファッション雑誌?」
 食事を終え、食堂に来る途中に自動販売機で買ったペットボトル入りの緑茶を飲みながら、響子は不思議そうにそれを見つめる。
 見たところ、後輩の子が持っているのは、ごく普通のファッション誌のようだ。しかし、響子は視線の先にある物に違和感を感じる。目の前に居る自分の後輩は女性だ。しかし、彼女が手にしている雑誌の表紙には男性モデルの姿があり、間違いなく男性向けのファッション雑誌である事がわかる。
「はい。この子、最近雑誌に出始めたモデルの男の子をすっかり気に入っちゃったみたいで」
 女性の後輩社員が、何故男性向けのファッション雑誌を買ってきたのだろう。思い浮かんだ疑問に不思議そうな顔をしていると、そんな響子の様子に気付いたのか、最初に雑誌の話題を出した後輩が丁寧に説明してくれた。
「だって、みずき君かっこいいだけじゃなくて、凄い綺麗な顔してるんだよ!」
「だからって……確かその子二十歳なんでしょ? 年下はね……」
 ファッション雑誌を握りしめ、自分が気に入っているモデルについて熱弁を振るう後輩と、彼女の隣で少し呆れた様子を見せながらその言葉を軽く流す後輩。響子はそんな二人の様子に微笑ましさを感じ、隣に座る西村と共に小さく笑いあった。
「もう、なんでわかんないの。西村先輩も水越先輩も見てください! ほら、この人がみずき君です。凄い素敵でしょ?」
「どれどれ……へー、確かに綺麗な顔してるわね」
 同僚が自分の意見に頷いてくれなかった事が悔しいのか、先程まで熱弁を振っていた彼女は、雑誌のとあるページを開き、先輩二人の目の前へとそれを置いた。
 そこには、春物の服に身を包んだ男性モデルの写真が載っている。
 男性モデルを見た西村は、雑誌を買ってきた後輩の言う通りだと頷き、彼女と会話を始めてしまう。
「……水越先輩? どうかしました?」
「えっ? あぁ、何でも無いの。予想外に綺麗な顔だったから、ちょっと吃驚しちゃって」
「確かに美人系の顔ですけど……私的には、もうちょっと男らしさが欲しいんですよね。今放送中のドラマに出てる……」
 響子は、後輩の会話になんとか相槌を打ちながら、時折視線をテーブルの上に置かれた雑誌へ向ける。
 開かれたページに載っている男性モデルの写真。それは、今西村との話に夢中になっている後輩がかっこいいと言っていた、みずきという男の写真だ。
 響子がその写真を気にする理由はただ一つ。その『みずき』こそ、数日前喫茶店で相席した男だと改めて認識したからだった。
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