契約書は婚姻届

28.相席のお礼

 年が明けた一月のある日、響子は一人で自宅近くの喫茶店に来ていた。
「はぁ……」
 テーブルの上に置いてある携帯電話を見つめると、彼女は大きく溜息を吐く。
 カッターの刃が混入した手紙が届いてから、彼女は以前の様に毎日の生活を純粋に楽しめなくなっていた。
 大樹と話していても、頭の片隅でチラつくあの女の顔。彼に心配を掛けないように平静を装うが、心の中はざわつくばかりだ。
 あの日以来、女からの手紙は響子の元へ数回届けられた。どれも毎回似たような内容の文面だったが、それでも響子の心は確実に弱っていく。
 自分は彼女の名前を知らないのに、どうして同じ状況であろう彼女は手紙を出す事が出来たのか。冷静になった時、響子はそんな疑問を感じた。
 表札を出していない玄関先に居た彼女が、響子の名前を知った経緯がわからない。記憶の中から、女が訪ねてきた日の事を思い出した響子は、一つの可能性に気付いた。
『水越様、お待たせしまし……あっ』
 あの時、丁度自分宛てに送られてきた荷物を持った工藤が姿を見せた。その時、彼は確かに『水越様』と響子の事を呼んだ。
 もしかして、女はそんな一瞬の出来事を記憶していたのだろうか。彼女が立ち去った時、工藤が持っていた荷物に貼られている伝票を目にしたとしたら。
 そんな事咄嗟に考え実行出来るのだろうか。しかし、もしこの仮説が正しければ、自分宛ての手紙に書かれた宛名が、いつも名字だけという事に納得出来る。
 あんな一瞬とも言える時間で、こちらの情報を入手したのだとしたら。そう考えると、女に対する恐怖は更に増すばかりだった。
 誰にも心配を掛けたくない。迷惑を掛けたくない。傷つく心とは逆に、そんな気持ちが日に日に響子の中で大きくなっていく。
 悩みを打ち明けられる相手は居らず、誰にも自分の変化を悟られないように、日々生活していくだけでも精神的ダメージはかなり大きかった。
 そんな毎日を過ごす彼女に大きなため息を吐かせる原因は、実はもう一つあるのだ。
 響子は、テーブルの上に置いていた携帯電話を手にし、メールの受信ボックスを開く。そして、一番最近受信した開封済みメールを改めて読み返した。
『今日も遅くなりそうだから、先に寝てていいよ』
 それは、今から一時間程前に受信した、帰宅が遅くなる事を知らせる夫からのメールだ。
 年が明けてから、度々このようなメールが届くようになった。それに伴い、今まで自宅に籠っている事が多かった夫は、頻繁に外出するようになり、響子より遅く帰宅する事が増えている。
 家の中で仕事に関する事は一切話さない約束があるため、大樹の外出について、自分の方からあまり話題には出来ない。
 一瞬プライベートな用事か何かとも思ったが、度々スーツ姿で帰宅する彼を目にしているため、その可能性は低いと考えられる。
 去年の十二月、あのマンションに住んで以来、初めてスーツ姿の大樹を目の当たりにした響子。それから約一ヶ月、彼女は度々スーツ姿の夫を目にしていた。
 最初はその姿に違和感を覚えたが、今ではこれが仕事時の夫なのだろうと考えるようにしている。大樹が仕事をしていると視覚的に実感出来るため、響子は心の中で妙な安堵感を感じていた。
 安堵感を感じる反面、帰宅が遅くなるというメールを夫から受け取る度、響子の溜息を吐く回数は増えるばかりだった。
 仕事が忙しいのだろう。その点に関しては理解しているつもりだ。自分自身、今まで会社で働き続け、毎日定時に帰宅出来るとは限らないという事は経験済みである。
 大樹と結婚してからも、上司から頼まれた仕事が終わらず、帰りが遅くなった事は何度かあった。そんな時は、必ず遅くなる事を夫にメールで伝えておいた。
 何も言わず帰宅が遅くなるよりは、メールでも電話でも一言伝えて欲しい。その方が、待っている身としては少しばかり安心出来る。待たせる側から待つ側になった今、その事がよくわかった。
 今日も夫は帰りが遅くなるらしい。メールの文面から考えると、彼の帰宅は深夜になるのかもしれない。
 響子は注文したカフェラテを飲みながら、ふと周囲へ視線を向ける。日曜日の午後という時間帯のせいか、どこの席も来店した客達で埋まっていた。
 家族連れやカップル、友達同士の客達の中、自分は一人淋しくテーブル席に座り、カフェラテを飲んでいる。小さく自嘲するような笑いを零し、彼女は、自分の目の前にある空席を見つめた。
 もし大樹の仕事が無かったら、この喫茶店にも二人一緒に来れたのだろうか。
「お客様、すみません」
 この場に居ない夫の事を考えていた響子の耳に、第三者の声が聞こえた。何事かと声がする方へ視線を向ければ、そこには、この店のエプロンを身に着けた女性店員が立っている。
「えっと……何ですか?」
 店員の視線に、声を掛けられたのは自分だと気付く。響子は一体何事だろうと不思議に思いながら、持っていたカップをテーブルの上に置き、視線を店員へ向けた。
「現在店内が大変混みあっておりまして……相席をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
 申し訳なさそうな店員の言葉に、響子は改めて周囲の状況を確認する。
 店員の女性に言われた通り、本当に店内は混雑しているようで、どこも席が埋まっていた。周囲を見ただけだが、空席があるのは、今響子が座っているこのテーブルくらいだ。
 目の前に向かい合う様に設置された椅子は現在誰も座っていない。店が混雑している状況で、ここだけ空席のままというのも周りの目が気になって落ち着かないだろう。
 自分がさっさと席を立ち、会計を済ませれば良いのかもしれない。しかし、生憎まだ家には帰りたくなかった。
「はい、私は構いませんよ」
 家に帰ってしまったら、本当に一人になってしまう。しばらくこの場から離れたくないという思いから、響子は店員の申し出を受け入れた。
 場所がどこであっても、一人で居るから余計な事を考え、気分が暗くなるのかもしれない。それなら、まったく知らない赤の他人でも、この場に誰か居てくれた方がいい。
 響子が頷いたのを確認した店員は、申し出を受け入れてくれた事に礼を言い、この席へとやってくる客を案内するためなのか、すぐにその場を離れて行った。



「せっかくの時間を邪魔しちゃってすみません」
 しばらくすると、先程の女性店員に連れられ一人の客がやってきた。
 声色、そして華奢ではあるが、その体つきから男性である事が理解出来る。マスクをし、帽子を被っているせいか、顔まではよく見えない。男は響子の目の前の席に座ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、そんな。全然大丈夫ですから」
 響子は、彼の言葉に慌てて首を横に振り、大丈夫と伝えた。相席するのが男性である事に少しばかり緊張するが、今更嫌だとは言えない。もし何か困った事があれば早々に立ち去ろう。
「えっと……そんじゃ、カフェラテ一つ」
 男は偶然にも響子が頼んだ物と同じメニューを注文した。注文を聞いた店員は軽く会釈をし去っていく。
 初対面の男性と一緒のテーブルに座っている事が落ち着かないのか、響子は自分の傍に置いてあったまだ中身が残るカップを手に取り、ちびりちびりとカフェラテを飲み始める。
 どうせなら、もっとゆっくり飲めば良かったと、既に半分以下になったカフェラテを見つつ、彼女は少し後悔した。
「どこかに出掛けた帰りですか?」
 これからどうしようかと悩んでいると、男はマスクを外しながら響子に話しかけてきた。
「い、いいえ。……家に一人で居ても暇なので、少し気分転換に」
 突然話しかけられた事に驚きながら、響子は自分がここに居る理由を説明する。カップを再度テーブルの上に置き、視線を上げると先程より男の顔がはっきりと見えた。
 太い黒縁眼鏡、そして眼鏡と同じ黒のニット帽がまず目に入った。透き通るような白い肌、ニット帽から所々はみ出した明るい茶髪。
 会社の同僚や後輩の女性社員達がこの場に居れば、十中八九騒いでいるに違いない。そう思う程彼の顔は整っていた。かっこいいと言うよりは、綺麗という言葉の方が合っているのではないか。どこか女性的な美しさを持つ目の前の男性に、響子は一瞬言葉を失う。
「……? あの、僕の顔に何かついてますか?」
「い、いいえっ!」
 ずっと響子の視線を感じていたためか、男は困惑した様子で首を傾げた。その言葉に、自分が失礼な事をしていたと気付いた彼女は、慌てた様子で彼から視線を逸らす。
「お待たせしました。カフェラテでございます」
 その時、男が注文したカフェラテが運ばれてきた。その様子を見た響子は、丁度良く注文の品を届けてくれた店員に心の中で感謝した。



 男の注文した物が運ばれてから、しばらくの間二人は他愛無い話を続けた。男は近くで仕事があり、少し休憩を取ろうとこの喫茶店に来たらしい。
 休日に仕事をしていたという彼の言葉に、響子はふと大樹の事を思い出した。今頃夫も仕事を頑張っているのだろうか。
「…………」
 今まで喋っていた口を閉ざし、テーブルへ視線を向けた彼女は数秒黙り込んだ。
『今日も疲れたよー。響子ちゃん、充電させて!』
 仕事終わりに帰ってきた大樹は、自分を出迎える妻を目にすると、必ずと言っていい程すぐ彼女に抱きついてくる。事あるごとに何かしら理由をつけて抱きつく夫。恥ずかしさを感じ、口では文句を言いつつも、毎回それを受け入れている自分。
 思い出すのはそんな彼の笑顔なのに、それとは逆に何故かどんどん響子の気持ちは落ち込んでいく。
「あの……大丈夫、ですか? もしかして具合悪かったり……」
「っ! ご、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって」
 突然黙り込んでしまった目の前に居る相手を心配する男の声に、響子は現在の状況を思い出し、慌てて相席している男に対し謝罪する。
「そう……ですか? もし具合が悪いんなら、遠慮しないで言ってください。僕すぐに出て行きますから」
 黙り込んだ自分の様子を見て、具合が悪いのではと心配する男の言葉に、なんだか申し訳ないと響子は思った。
「本当に具合悪いとかじゃないんで、心配しないでください」
 再度具合は悪くないと言い、響子は軽く首を横に振って、男を安心させようと笑顔を浮かべる。
「そうですか。……でも、眠れてない、ですよね?」
「えっ?」
 笑顔を見せる響子の言葉に納得した様子の男だったが、次の瞬間、彼は目の前に座る響子の顔を真っ直ぐ見つめ、自分が思った疑問を投げかける。
 突然、まだ出会って一時間も経っていない男の口から、眠れていないのではと問いかけられた事に、響子は驚き、困惑の表情を隠せなかった。
「どうして、そんな事……」
「目元。メイクして誤魔化してるんでしょうけど、目の下に隈がありますよ」
 自分の目元を指差し、響子の目の下に隈が出来ていると男は言った。その言葉をすぐに否定出来ず、彼女は口を噤む。
 まさにその通りだった。仕事で忙しそうにしている大樹の事。自分に嫌がらせをする女の事。誰にも相談する事が出来ず、一人で抱え込んでいるせいか、響子の眠りは浅く、夜中に何度も目を覚ましたり、なかなか寝付けない事が最近多くなってきた。
 寝不足のせいで目の下に出来てしまった隈を隠そうと、メイクをし家を出てきたにも関わらず、何故目の前に座る男に気付かれたのだろう。
「普通なら気付かないと思います。僕がやってる仕事の影響なのかな……ちょっと気になっただけなんで」
 申し訳なさそうに、響子の目元の隈に気付いた理由を説明する男。普通なら気付かないと言われても、貴方は気付いてしまったんでしょ、と言えるわけもなく、響子は口元に力の無い笑みを浮かべる。
 寝不足の原因である不安要素が無くなれば一番なのだが、生憎それは限りなく不可能に近い。
 そうなれば、化粧で必死に誤魔化す事しかない。もっとメイクを濃くすれば完璧に誤魔化せるだろうか。しかし、いつもと違うメイクになり、違和感が生じるに違いない。
「あの……」
 目の下の隈を隠す方法について悩んでいる響子へ、男は不意に声を掛ける。
「僕で良ければ……話聞きますよ? 相席してもらったお礼って事で。……何か、悩みがあるんでしょう?」
「そんな、悩みなんてありませんよ。ちょっとやらなきゃいけない事があって、ここ数日寝るのが遅くなっただけですから」
 悩んでいるなら話を聞くと言う男の言葉に、響子ははっきりと首を横に振り、寝不足の理由を誤魔化した。
 誰かに話を聞いてもらいたい。その気持ちは確かに彼女の中に存在している。しかし、聞いていて楽しいものでは無い。内容が内容だけに、初対面の男性に話す事は出来ないと思った。
「あんなに悲しそうな顔するような事が、やらなきゃならない事なんですか?」
 今までより僅かに強くなった男の口調に、響子は思わず彼の顔を凝視する。響子と視線があった男は、不意にとても柔らかい笑みを浮かべた。
「見ず知らずの人間だから、知り合いに言うより気楽って事もあるんじゃないですか? 自分の中に溜め込むより、誰かに話すだけでも、少しは気分が変わるかもしれませんよ?」
 あまりにも優しい男の声と穏やかな表情に、響子の心は揺れ動いた。
Copyright 2014 Rin Yukimiya All rights reserved.

inserted by FC2 system