契約書は婚姻届

27.オモチャを取られた子供

 十二月に入り、今年もあと残り一ヶ月を切った。年越しの準備を少しずつ始めなければいけない。そんな事を思う反面、最近の響子は、一人になると以前自宅にやってきた女の事を思い出し、落ち込む事が多くなった。
「お帰りなさいませ、水越様」
 仕事を終え、マンションへ帰宅した彼女を出迎えるコンシェルジュ達。今日の担当は橋本と西島だ。
「橋本さん、西島さんも、お仕事お疲れ様です」
 響子は自分を出迎えてくれた二人に対し軽く頭を下げる。その様子を見た彼らは、自分達に対する彼女の態度に嬉しさを感じ、小さく口元に笑みを浮かべる。
 コンシェルジュに対する響子の態度は、間違いなく彼女が共に暮らしている大樹の影響だと二人は感じていた。自分達に対し、大樹はいつも気さくな態度で接してくれる。そんな男と同居し、彼の自分達に対する態度を何度も目にしてきた彼女だからこその対応なのだろう。
 このマンションで暮らしているのは、何も大樹達だけではない。職業、年齢、性格などはバラバラで、他にもたくさんの住人がここで生活している。
 彼らの中には、橋本達が挨拶をしても、それを気にしない人間も存在する。まだここで働き出して数年の工藤など、後輩達はそれに少なからず傷つく事もあった。その度、これが自分達の仕事なのだと言い聞かせてきたのが橋本だ。
 そんな住人達の中で、コンシェルジュである自分達に対し気さくに接してくれる人物。それが大樹だった。
 橋本達とて人間だ、人の好き嫌いはもちろんあるだろう。そんな彼らが一番気を許している住人は、ここ数年ずっと同じだ。彼らにこっそり一番好きな住人についてアンケートでも取れば、全員が大樹の名前を挙げるに違いない。
 そして、一年程前から大樹と共に暮らし始めた響子に対しても、皆好印象を抱いている。彼女はここに住む住人達の中で、一番庶民という立場に近いのかもしれない。
 引っ越してきた当初など、対応するコンシェルジュを見ては毎回困惑した様子だった。そんな彼女の普通な態度も、コンシェルジュとして働く彼らに好印象を与えた要因だろう。
「こちら、本日届いた郵便物です。こちらが浅生様へ、そしてこちらが水越様への物になります」
 挨拶を終えた直後、西島は大樹と響子宛に届いた郵便物を彼女に差し出した。
「わざわざ有難うございます」
 響子はそれらを受け取ると、西島に向かって軽く頭を下げた。大樹が自宅から一歩も出ない日に届いた郵便物は、平日に限り、度々今のように会社帰りの響子が預かり夫に渡している。
 自分宛てに郵便物が届く事を珍しく思い、差出人の名前を確認するため白い封筒の裏面を見ようとした時だった。
「ん? 水越様、髪に何かついているみたいですね」
「え、本当ですか?」
 橋本から突然伝えられた言葉に、響子は慌てて自分の髪に付着しているものを確認しようと、手に持った郵便物を全て片手にまとめ空いた手を伸ばす。左右に下ろしている髪を指で梳いてみるが、指が異物に触れる気配は無い。
「あぁ、違います。もう少し上の方に……少々失礼します」
 別に髪に何かが付着している様子は無いと首を傾げる響子の姿に、橋本は躊躇しつつも彼女の左耳上辺りへ手を伸ばした。そして、スッと彼女の髪を一撫ですると、取れましたよ、と笑みを浮かべる。
「わざわざすみませ……」
「浅生様。お帰りなさいませ」
「えっ?」
 橋本にお礼の言葉を伝えている最中、突然聞こえた西島の言葉に驚き、響子は慌ててマンション入り口へと視線を向ける。すると、てっきり自宅に居るものと思っていた夫の姿がそこにあった。
「ただいまー……って、あれ? 響子ちゃんも帰ってきてたのか。ただいま」
 西島達に向かい軽く手をあげ挨拶をした次の瞬間、妻の存在に気付いた大樹は、響子に対しても笑顔でただいまと声を掛ける。
「…………」
 響子は、突然現れた夫の姿に驚きを隠せず、無言でその場に立ち尽くした。自宅に居ると思っていた夫が、実は外出していた事、そして自分より後に帰宅した事ももちろん驚く事だ。しかし、彼女が一番驚いているのはそれ以外の事だった。
「……おーい、響子ちゃーん」
 無言のまま目の前で佇む妻の様子に、大樹は慌てて名前を呼び、彼女の目の前で自分の手を左右に振る。突然無言になった響子の様子に、何かあったのではと橋本達も心配そうな様子だ。
「……てた、……すね」
「ん? 何て言ったの?」
 口を開き、自分に何かを伝えようとする妻の姿に、大樹は彼女の口元に耳を近付ける。そして、もう一度繰り返して欲しいと伝えると、響子は数秒前に自分が発した言葉を再度口にした。
「ちゃんと……お仕事してたんですね」
「えっ?」
 再度響子が口にした言葉は、大樹だけではなく橋本や西島まで驚かせた。一人の女が発した言葉の意味を理解出来ず、三人の男は戸惑いを隠せず、自分達の目の前に居る彼女を見つめるのみだ。
 響子が驚き無言になった理由。その一つは現在の大樹の服装にあった。防寒用にダウンジャケットを羽織っているが、ファスナーを閉めていないせいで中に着ている黒いスーツの一部が見えている。
 響子にとって、夫がスーツを着ている姿を目にするのは、今回で二度目だ。初めてその姿を見たのは、二人が出会ったあの料亭。
 二人が共にこのマンションで生活し始めてからは、大樹のスーツ姿など見る機会は一度も無かった。いつもスウェットかジャージ姿、外出時も基本的に楽な服装ばかりのため、大樹自身あまりお洒落に興味が無いのだろう。
 初対面の時、そして現在。色やデザインは違うが、大樹が着ているのがスーツだという事に変わりは無い。相変わらずの無精ひげもそのままだ。
 あの頃と違うものがあるとすれば、それは響子自身が抱く大樹に対する気持ち。他人が見れば何の変哲も無いスーツ姿でも、少なからずかっこいいと思ってしまうのは、惚れた弱みなのかもしれない。
 そして二つ目の理由、それもスーツ姿の大樹を見て思った事だ。
 詳しい内容はわからないにしろ、夫が仕事をしているという事は話に聞いていた。実際、自分が越してくる前から高級マンションの家賃を払い続けている所を見ると、結構な金額の給料を貰っているに違いない。
 仕事をしているという認識は薄らあったものの、今こうして目の前にスーツ姿の大樹が立っている状況に、改めて彼がきちんと仕事をしている事実を突きつけられる。
 黒スーツでイメージするのは何も仕事だけとは限らない。冠婚葬祭の何かがあった事も予想出来るが、今朝朝食を食べている時、夫からそのような話を聞いた記憶は無い。
 初めて目にした『仕事帰り』の夫の姿に、響子は無意識に思った事を呟いてしまった。
 その呟きを聞いたであろう夫は、数秒言葉を失ったかと思えば、自身の頬を掻きながら恐る恐る口を開く。
「えーっと……まさか、とは思うんだけど。響子ちゃんまで、俺が仕事してないとか、思ってた?」
「……くすっ。……ゴホン、ゴホン」
 若干頬を引き攣らせながら妻に確認を取る大樹。そんな彼の様子を見ていた橋本は、無意識に笑ってしまい慌てて咳払いをし誤魔化そうとする。
「橋本さん、笑うなら笑うでいいですよ。変に我慢されたら、そっちの方が余計辛いんですけど」
 その様子を見た大樹が溜息を吐く。そんな彼の指摘に、橋本は何事も無かったかのような笑みを浮かべた。しかし大樹は、橋本の口元が若干引き攣っている事を見逃さなかった。



 その後、響子と大樹は自宅へ戻るため、エントランスから移動しエレベーターへと乗り込んだ。
「…………」
「…………」
 エレベーターは云わば密室空間だ。他に誰も乗っていない、二人っきりの状態。いつもの彼らなら、何かしら会話をしているだろう。しかし、今の二人は互いに口を閉ざしている。
「あの……大樹さん」
 無言の理由に戸惑う響子は、我慢出来ず夫の名を呼んだ。
「んー?」
 自分の名前を呼ぶ妻の声は確実に耳に届いているはず。それなのに、大樹は気の抜けた返事を返した。
「その……いつまで、私の髪を触ってるんですか?」
 エレベーターに乗ってから、ずっと気になっていた事を響子はようやく口に出す事が出来た。
 彼女が無言だった理由、それはエレベーターに乗ってからずっと旦那に髪を触られていたからだ。優しく髪全体を撫でたかと思えば、髪の毛を指で摘み己の指に巻きつけてみたりと、大樹はこの密室空間で一言も喋らず妻の髪を触り続けた。
 何か私の髪にいつもと違う何かがあるのだろうか。普通、理由も無く人は他人の髪に触れようとは思わないはずだ。何も考えずに触れていたら、相当な変わり者に違いない。
 混乱する妻を気にする様子は無く、髪に触れている事を問われたにも関わらず、大樹は未だ無言で彼女の髪に触れている。幾度となく触れるその手つきが妙に優しく、響子自身この状況が心底嫌というわけでは無い。
 その後、大樹から髪に触れる明確な理由を聞くより前に、エレベーターは目的の階に到着してしまった。ちらりと横に居る旦那へ視線を向けるが、相変わらず髪を触るのみで特に他の変化は無い。
 こうなったら、満足するまで触らせておこうかとさえ思い始めた彼女は、夫の行動を咎める事無く、開いた扉から外へ出ると自宅へ向かうため通路を無言で進む。
 その間、大樹もまた無言で歩みを進めるが、彼の手は相変わらず妻の髪に触れていた。
 自宅前に到着してもなお彼の行動に変化は無い。そんなに髪を触って何が楽しいのかと呆れながら、響子は自分の持つバッグの中から自宅の鍵を取り出しドアの鍵を開けた。
「はぁ……大樹さん、家に着いたんですからいい加減に……っ!」
 家の中へ入り、靴を脱ぐ前にと夫に声を掛けた響子だったが、隣に居る彼の方を向いた瞬間、強い力で腕を引っ張られる。そして、自身の身体が一瞬傾くのを感じた次の瞬間、彼女は大樹に抱きしめられ唇を奪われた。
「ん……だい……っ、んん」
 慌てて大樹の名を口にしようとするが、口を開いた瞬間、口内に入ってきた彼の舌のせいで最後までその名前を口にする事は出来なかった。
 突然の事に混乱し、慌てて身を捩り夫の腕の中から抜け出そうと試みるが、己の口内で動く彼の熱い舌に、響子の抵抗は徐々に弱くなっていく。
「……っ、はぁ……ん……」
 妻を抱き締め荒々しく口付けた大樹は、己の舌で彼女を翻弄する。荒々しく動き続ける舌とは逆に、妻の体を抱き締めていた手を片方離し、再び彼女の髪に触れた。
 最初は戸惑うばかりで体を固くしていた響子も、大樹から与えられる熱に浮かされ体の力が抜けていく。そのせいか、エントランスからここに来るまでの間、ずっと彼女の手に握られていたいくつかの封筒は、すべて手から滑り落ちてしまった。
 響子は、反射的に大樹が着ているダウンジャケットを両手で掴み、倒れないように体を支える事で精一杯だった。
「……っ、はぁ」
 ようやく互いの唇が離れ、まだぼんやりとする意識の中、響子は夫を見つめる。
 大樹が今のように突然キスをする事は、そんなに珍しい事では無い。しかし、今日のキスはいつもと違い、やけに激しかった気がする。その理由は一体何だろうかと考えていると、突然大樹が妻の首元に顔を埋める。
「大樹さん、何か……あったんですか?」
 自分の顔の真横に見えるのは夫の耳。首元に顔を埋められたせいで、今彼が一体どんな表情を浮かべているのか解らなかった。
「もうちょっとだけ……今ちょっと自己嫌悪中だから」
「え? じ、自己嫌悪?」
 自分を抱きしめたまま首元に顔を埋める夫の背中に回そうとした腕を、響子は驚きのあまりピタリと止めてしまう。予想外過ぎる言葉が夫の口から呟かれ、彼女の脳内は一気に疑問符で埋め尽くされる。
「……だって、さっきさー」
 拗ねた子供のような口調で喋る大樹の吐き出す息が首元に掛かりくすぐったい。しかし、それを我慢しながら響子は夫の言葉に耳を傾けた。
「橋本さんが……響子ちゃんの頭撫でてたでしょ」
「えっ?」
 耳に届いた夫の言葉の意味が一瞬理解出来ず、思わず聞き返してしまう。しかし、彼女はすぐに大樹が言おうとしている事に気付いた。
『ん? 水越様、髪に何かついているみたいですね』
『え、本当ですか?』
『あぁ、違います。もう少し上の方に……少々失礼します』
 あの時は確か、髪についていたゴミか何かを取る事が出来なかったため、橋本に取ってもらったのだ。まさかその光景を夫が見ていたなんて思わず、驚いた響子は目を見開く。
 しかし、特に何も変わった事のない光景のはず。橋本は親切心でわざわざ響子の髪についたゴミを取ってくれた。その事が、今現在の夫の様子と何か繋がる事があるのだろうか。
 彼女は改めて、エントランスからここに来るまでを思い出してみた。橋本が自分の頭に触れた所を見ていた夫。そしてエレベーターに乗ってからここまでの間、何故か彼はほとんど無言で、妻の髪を触り続けていた。
「……あ」
 響子は、とある可能性を思い浮かべ、これを口に出して良いものかと迷いながらも、未だ自分にくっついている夫へ視線を向けると、ゆっくり口を開く。
「間違ってたら申し訳ないんですけど。……大樹さん、もしかして……妬いて、ます?」
「…………」
 きっと自分の勘違いだ。そう考えていた響子だったが、自分の問いかけに反応を示さない夫にぎこちなく視線を向ける。そこには、相変わらず妻の首元に顔を埋めた夫が居り、何かしら反応すると思っていたが、彼は喋ろうとも動こうともしない。
 普段なら滅多にしない激しい口付け、帰宅するまでの間ずっと妻の髪を触っていた夫。そして、彼は妻と橋本のやり取りを見ていた。大樹はもしかしたら橋本に嫉妬しているのではないか。響子はふとそんな考えを抱いた。
 自分の問いかけに無反応な大樹の様子を見た響子の頬は熱を帯び、だんだんと胸の鼓動が速くなっていく。もしかして、本当に彼は嫉妬していると言うのか。
「……橋本さんは、私の髪についてたゴミを……取ってくれただけですよ?」
「橋本さんが、変な事するわけないって……わかってる、けど。でも……」
 状況を説明する妻の言葉に、ようやく反応を示すが途中で口籠ってしまう大樹。それを見て、自分の予想が現実のものだったと知った響子は、恥ずかしさと共に妙な嬉しさを感じていた。
 些細な事で嫉妬する夫の姿を可愛いと言わずに何と言えばいいのだろう。響子は思わず、自身の首元に顔を埋める大樹の頭をよしよしと何度も撫でた。
 現実は、あと数年で四十歳になる男の頭を妻が撫でているのだが、それはまるで、母親が小さな自分の子供をあやしているような光景に見えた。



 それからしばらくの間、拗ねてしまった大樹の機嫌が戻るのを根気よく待ち、響子は着替えをするために自室へ向かった。
「ふぅ……吃驚した」
 部屋のドアを閉め、そのまま寄りかかるように背中を預け大きく息を吐く。そして思い出すのは、つい数分前に起こった出来事。
 些細な事で嫉妬する大樹の姿を初めて見た響子は、可笑しさや恥ずかしさと共に、嬉しさを感じずにはいられなかった。彼が嫉妬してくれるという事は、それだけ自分が愛されているから。なんて、自分に都合よく解釈してしまいそうになる。
 度々夫の子供っぽい言動を見てきた彼女は、先程の大樹の姿を思い出しながら、まるで自分のお気に入りのオモチャを取られた子供みたいだと小さく笑う。
 スーツ姿の夫、そして嫉妬する夫など、今日はまた彼の新たな姿を目にする事が出来た。
 他人からすれば特に気にならない事でも、自分にとっては大きな出来事と思いながら、響子はドアにくっつけていた背中を離し、自分の手に持っている物へ視線を向ける。
 彼女が手にしているのは、エントランスで西島に渡された郵便物。
 玄関で大樹に突然キスされた時に思わず落としてしまったが、後でそれに気付いた大樹はごめんと苦笑しながらすべて拾ってくれた。夫はそれらの宛先と差出人をチェックし、妻宛てに届いている物を響子に渡してくれた。
 響子は改めて自分の手の中にあるものを見つめる。それは、便箋を入れるための何の模様も無い白の封筒だ。表面には宛先として、このマンションの住所と自宅の部屋番号、そして『水越様』と自分の名字が書かれている。そして封筒の裏面を確認するが、そこに差出人の名前は書かれていない。
 どこか不思議な手紙に違和感を覚え、響子は思わず首を傾げる。
 郵便物や宅配便など、この家に届くほとんどの物は夫宛てである事が多い。たまに響子宛てに届く事もあるが、そのほとんどは携帯電話の使用料請求など個人的な支払いに関する物だ。そして、母親から荷物が届く事が何度かあったが、響子宛てに手紙が届く事など滅多に無い。
 自分宛てに届いた手紙を見つめ、響子はもう一つ気になる点を発見した。それは封筒の表面に書かれている宛名。何故『水越様』と名字だけが書かれているのだろう。宛先に書かれているのが名字だけでも配達される事は知っているが、下の名前まで書いて送るのが普通だと思う。
 この家に住んでいる事を知っている人々の顔を思い出し、自分の名字のみを知っている人物はいないはずなのに、と響子の中で更に疑問が増えた。
 一先ず封筒の中身を確認してみれば、誰がこの手紙を書いたのか判明するかもしれない。響子はその場で、封をしてある部分の隙間に指を入れ、封筒の接着部分を丁寧に剥がしていく。使われた糊自体の粘着力が弱かったせいなのか、簡単に開封する事が出来た。
 綺麗に開封した封筒の中には、折り畳まれた便箋が一枚入っている。差出人不明の手紙でも、手紙の内容を見れば思い出すだろう。響子は差出人を早く知りたいと、封筒から便箋を取り出そうとした。
「いたっ!」
 しかし、次の瞬間右手の指に突然痛みを感じ、響子は反射的に持っていた物から手を離した。そのせいで、今まで彼女の手の中にあった封筒と便箋がひらひらと床へ落ちていく。
「……な、に?」
 突然の事に驚き、響子はゆっくりと痛みを感じた右手人差し指へ視線を向ける。その指先には、一本の線が赤く浮かび上がっていた。
 突然指に感じた痛み、そして赤い線。どうやら、便箋を取り出す時に誤って指先を切ってしまったらしい。傷口からじわりと滲む赤い血を目にし、余計指先が痛くなった気がした。
 紙に触れ指に怪我を負う事は時々ある。運が悪かったと苦笑し、彼女は血が滲む人差し指を己の口で咥えた。そして落としてしまった便箋と封筒を拾おうとその場にしゃがみ、空いている左手を床に落ちた便箋へと伸ばす。
「……え」
 響子は、視界に映ったある物に驚き、伸ばしかけていた手を止める。便箋と自身の指先の距離はあと数センチ。彼女の視線の先にあるのは落としてしまった便箋。自分が拾おうとしていた便箋を凝視し、彼女は言葉を失う。
 綺麗に折り目がついた一枚の便箋。その折り目部分には、そこにあるはずの無いものがついていた。
 何故だ。何故、目の前にある便箋にカッターの刃が剥き出し状態でくっついているのだろう。
 じっくり観察すると、それは、便箋の折り目に沿うように、セロハンテープか何かでつけられているようだ。
 咄嗟に口に咥えていた指を出し、その傷口を見つめる。一本の線のような傷跡を見た彼女は、そのまま視線を便箋につけられたカッターの刃へ向けた。
 この怪我の原因はもしかして。封筒の中に入っている便箋を取り出す際、怪我をするようにわざとこんな仕掛けをしたのではないか。響子の脳裏に嫌な考えが浮かぶ。
「……っ!」
 今度は怪我をしないよう慎重に、震える手で恐る恐る便箋を掴む。そして、そこに書かれている文章を目にした瞬間、恐怖という感情が彼女の心を支配した。
 そこには、響子に対する誹謗中傷の言葉が嫌と言う程書き綴られている。そして、今すぐ大樹と別れなければ、更に大変な事になると言った文面もあった。
 恐怖に震えながら、響子はこの手紙の差出人に思い当たる人物がいる事に気付いた。先月、大樹が外出した時にここへやってきた女性だ。
 この手紙の差出人が彼女であると、響子の中で確信に近い気持ちが強くなる。
「それにしても……死ねって。はは……あはは……」
 手紙の最後の一文は、自分の感情をぶつけるように『お前なんか死んでしまえ』となぐり書きされていた。それを見た瞬間、響子は何故か力無く笑い出す。
 手紙に入ったカミソリの刃、そして誹謗中傷の手紙。学生のいじめかとも思える程典型的なパターンだ。
 今までの人生で、響子自身そのような経験をした事は無かった。無かったからこそ、初めての自分に対する悪意が詰まった手紙に恐怖という感情を抱く。
「……は。……っ、グスッ……ううっ」
 響子の瞳からいくつもの涙が流れ出す。今まで笑っていたはずなのに、今度は瞳から涙が溢れ止まらない。持っていた手紙から手を離し、両手で己の顔を覆い隠す。
 突然の出来事に混乱し、恐怖や不安に押しつぶされそうになりながら、彼女はその場に座り込み泣く事しか出来なかった。



「グスッ……うっ……」
 響子の部屋のドア一枚を隔てた向こう側、その廊下には大樹が無言で立ち尽くしていた。
 妻が落とした郵便物を拾い、自分宛ての物を確認した時に見つけた響子宛ての白い封筒。その時は気付かなかったが、住所の文字に癖がある事を思い出した大樹は、慌てて妻の部屋の前へやってきた。
 ノックをしようとした瞬間、部屋の中から聞こえてきたのは声を押し殺した響子の泣き声。それを聞いた瞬間、大樹は自分に対する怒りで頭がおかしくなるのではと思った。
 あの癖のある字には見覚えがあった。それなのに、何故もっと早く気付かなかったんだと、心の中で何度も自分を責める。
「……っ」
 指先が白くなるまで握りしめた両手はプルプルと震え、力いっぱい歯を食いしばる。
 今感情のまま行動しては、自分でも何をしでかすかわからない。それだけは避けなければと、妻の部屋の前で立ち尽くし、大樹は自分の感情を押し殺そうと、自分自身と必死に闘い続けた。
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