契約書は婚姻届

26.夫の気持ち、妻の涙

 コンシェルジュである工藤が訪ねてくるものとばかり思っていた。
 しかし、来訪者を告げるチャイムが鳴り、ドアを開けた響子の目の前に立っていたのは見ず知らずの女性。
 大樹と知り合いらしいその女の言動に、響子の心の中にとある不安がうまれる。
「ねぇ、大樹どこに居るの?」
 突然の出来事に混乱していると、不意に女性から声を掛けられた。響子は慌てて彼女へ視線を向け口を開く。
「だ、大樹さんは今……外に出ていて」
 自分ではいつも通りに喋っているつもりだが、耳に届く声は僅かに震えている。それは、響子の中にある明らかな動揺を示していた。
 何も動揺する事など無い。堂々と対応すればいい。そう頭では分かっているのに、今すぐ玄関のドアを閉めたいと思ってしまう。
 目の前に居る女の口から夫の名前を聞いた瞬間、響子の脳裏を過ったとある単語。先程から考えすぎだと、何度も自分へ言い聞かせるが、まったく心が落ち着かない。
「ふーん。まさかとは思うけど……貴女、ここに住んでるの?」
「えっ? 貴女は……大樹さんとどういう……」
「大樹も随分趣味が悪くなったわね。こんなブスな女と付き合うなんて」
 女性に対し、大樹とどのような関係かを問いかけようした時、響子の言葉を遮ると彼女は大樹を誹謗し始める。
 目の前に居る女が何者なのか。響子は、その答えを彼女の言動から推測し、自分の中で導き出した。そして心の中でその単語を呟き、思わず目を伏せてしまう。
「水越様、お待たせしまし……あっ」
 その時、自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、慌ててそちらを向くと荷物を抱えた工藤の姿が目に飛び込んできた。
 工藤の方も、響子の姿を目にし声を掛けたが、すぐに来客の姿を発見し、慌ててその場に立ち止まる。そして、話の邪魔にならないようにと、荷物を抱えたまま通路の端へ移動した。
「はぁ……何あいつ。今日はもう帰るわ。大樹が居ないんじゃ話にならないし。……さっさと大樹と別れなさい。貴女とあの人じゃ、全然釣り合ってないわよ」
 予想外の人物の登場に気がそがれたとばかりに、響子に対し自分の言いたい事を告げると、女はその場から足早に立ち去る。工藤は去っていく女に対し軽く頭を下げるも、彼女はそれを無視しエレベーターへ乗り込んだ。
 何も言い返す事が出来なかった。女が発した言葉一つ一つが、次々と響子の胸へ矢のように突き刺さる。
「……さま。……こし様、水越様っ!」
「……っ!」
 その場に呆然と立ち尽くす事しか出来ず、様々な憶測が頭の中で飛び交い始める。そんな時、自分の名前を呼ぶ工藤の声に響子は現実へと引き戻された。我に返ると、心配そうに自分を見つめるコンシェルジュの姿が目に飛び込んでくる。
「ご、ごめんね豊君。ちょっとボーっとしちゃって。あ、これが荷物か。重いのにわざわざありがとう」
 矢継ぎ早に工藤へ話し掛けたかと思えば、響子は彼の持っている段ボールを受け取ろうと手を伸ばす。しかし、工藤は一歩後ろへ下がり、荷物を受け取ろうとする彼女の手をかわした。
 予想外の彼の行動に驚き、戸惑った表情を見せる彼女を見た工藤は、数秒悩んだ後躊躇いながらも口を開く。
「我々が……住人の方々の人間関係に口出しする事など、本来あってはならない事だと重々承知しています。ですが……浅生様と水越様は、とてもお似合いだと思います。俺、まだここに勤めたばかりですけど、最近思う事があるんです」
 普段と違い、いきなり畏まった口調で工藤は喋り始めた。その様子があまりにも必死なため、響子は黙って彼の言葉に耳を傾ける。
「浅生様は、我々にも気さくに接して下さいますし、いつも笑顔で話し掛けて下さいます。今の浅生様は、俺がここに勤め始めた時と違って、なんというか……笑顔が違うんです。柔らかくなったっていうか、心からの笑顔っていうか。だから、だから……負けないでくださいね!」
 失礼にならないよう慎重に言葉を選び、それを次々と繋ぎ合せて行く。そんな工藤の様子がだんだんと可笑しくなり、響子は我慢出来ず小さく吹き出してしまった。



 工藤から荷物を受け取った後、響子はそのままダイニングルームへ向かった。テーブルの上に重たい段ボールを置き、ガムテープを剥がし中身を確認し始める。娘の事を気遣ってか、中には野菜や果物、響子の好物料理など様々な物が入っていた。
「お母さんったら……入れすぎだって」
 一人暮らしをしていた頃も、たまに母親から荷物が届く事があった。結婚して回数こそかなり減ったが、今でもふと忘れた頃に荷物が届けられる。
 響子は段ボールの中に入っている物を手に取り、一つ一つテーブルの上へ出していく。
『あ……す、すみません! 俺、今とんでもない事言いましたよね。あー、これバレたら西島さんだけじゃなくて、橋本さんにまで怒られる』
 負けないでと自分を励ましてくれた工藤は、響子の前でとんだ失言をしてしまったと気付き、彼女に対し慌てて頭を下げ謝罪を繰り返した。
「……くすくす」
 自分の先輩達の顔を思い浮かべ顔を青くする工藤の姿を思い出し、響子は可笑しそうに笑い始める。
 大袈裟かもしれないが、あの時の彼は、この世の終わりだと思うような酷い顔をしていた。そう思ってしまう程、先輩コンシェルジュである橋本や西島が厳しいという事だろう。
 そして、響子が誰にも言わないと言えば、今まで暗かった顔が一気に明るくなり、何度もありがとうと感謝の言葉を口にした。
「…………」
 入っていた物をすべて出し終わり、空になった段ボールを見つめ響子は不意に無言になる。
『今日はもう帰るわ。大樹が居ないんじゃ話にならないし。……さっさと大樹と別れなさい。貴女とあの人じゃ、全然釣り合ってないわよ』
 思い出すのは、数分前に初めて出会った女の姿、そして彼女の声と言葉だった。
 初めて顔を見た大半の人達は、彼女を綺麗だと褒めるだろう。まるでそれを理解しているかのように、彼女の纏う雰囲気は自信に満ち溢れていた。どこか強気な態度も、彼女という人物の一部なのかもしれない。
 大樹とすぐに別れろ。二人は釣り合っていない。攻撃的な言葉の数々を思い出し、響子はその場にしゃがみ込む。
「……っ、ぐすっ……うっ……」
 突然の出来事に驚き動揺していたが、一人になった途端に響子の瞳から涙が零れる。
 工藤は、必死になって自分を励ましてくれた。もしかしたら彼も、あの女について何かを感じ取ったのかもしれない。
『貴女とあの人じゃ、全然釣り合ってないわよ』
 そんな事、言われなくても重々承知している。響子はごくごく普通のOLで、大樹とは住む世界が違う。両親が借金の肩代わりなどしなければ、二人に接点など無いのだ。
 この数か月、マンションでの生活にも慣れ、大樹があまりにも優しく接してくれるせいで、響子自身その事を忘れかけていた。
 浅生大樹という男についても、響子は未だ知らない事が多すぎる。あの女は、自分が知らない大樹を知っているのだろうか。そう考えるだけで、嫉妬にも似たモヤモヤした感情が生まれる。
 突然現れた女性の顔を再度思い出す。彼女はきっと大樹が過去に付き合っていた人。響子は直感的にそう確信した。



「あー、疲れた。響子ちゃん、ただいまー」
 夜七時を過ぎた頃、ようやく大樹は外出先から戻ってきた。誠司から夜までには戻ると聞いていたが、予想より遅い帰宅に、響子は慌てて玄関へ向かう。
「お帰りなさい。遅かったですね」
「うん、本当はもっと早く帰りたかったんだけど……なっかなか帰してくれなくて。はい、これお土産」
 玄関で靴を脱いだ大樹は、妻に土産だと言って紙袋を渡す。その中には、有名な中華料理店のお持ち帰り用餃子が数パック入っていた。
「え……あの、今日行った所って中華のお店なんで……って、うわっ!」
 響子が意外なお土産に驚いていると、大樹はニコニコと笑みを浮かべ、紙袋を持ったままの妻を抱きしめる。
「あー……やっと帰ってこれたー。んー、響子ちゃんの匂いがするー」
 夫はとても上機嫌らしく、響子を抱きしめれば、甘えるように彼女の首元に顔を近付け、その匂いを嗅ぎ堪能する。
 気持ちを伝えて以来、夫は何かと理由をつけ、妻を抱き締める事が多くなった気がする。最初は抵抗していた響子だったが、最近は諦めた方が早いのでは、と思うようになってきた。
「う……お酒くさっ。もしかして飲んできたんですか?」
 自分を抱きしめ首元に顔を埋める夫の発する口臭に、響子は思わず顔をしかめる。酒の匂いと、中華料理を食べてきたからなのか少々にんにくの匂いがきつい。
「んー? そんなには飲んでないよ。ちょっとだけだから、全然大丈夫!」
 いつもより元気に妻の言葉に返答する大樹。その様子に、これはかなり酔っているなと、響子は溜息を吐きたくなった。
「一先ず離れてください。お水持ってきます」
「嫌だ、もうちょっと」
 響子の言葉を聞いても、一向に大樹が彼女から離れる様子は無い。嫌だと首を横に振り、妻を抱きしめる腕にますます力を入れる。酔っているせいか力加減が上手くいかない様で、抱き締められる響子は、その強い力に若干苦しさを感じ始める。
 苦しさを訴えようとすれば、突然自分の方へと近づいてくる大樹の笑顔。もしかして、キスしようとしているのか。そう思った響子は、反射的に土産の入った紙袋を持っていない方の手を、夫の目の前へと突き出した。
「うぐっ」
 彼女の突き出した手に顔面をぶつけた大樹は、指の隙間から、妻へ何かを訴えるような視線を向ける。
「お酒臭い人とキスしたくありません」
 視線の意味を理解した響子は、きっぱりと自分の意思を告げた。そんな彼女の言葉で頭でも殴られたかのように、大樹は次の瞬間、誰が見ても分かる程落ち込んでしまった。



 日付が変わった深夜、二人は響子の自室のベッドの上に居た。
「スー……スー……」
 夫の隣に横たわり、安心しきった表情で穏やかに眠る響子。その姿を、暗闇に慣れた瞳で微笑ましそうに大樹は見つめる。
 今まで別々の部屋で寝ていた二人だったが、結婚記念日以来、こうして一緒のベッドで眠る事が多くなった。
 大樹より先に響子が眠っても、翌日彼女が目を覚ませば隣には夫が眠っている。そんな日々が続いていた。
「響子ちゃーん、寝てますかー?」
 妻がすっかり熟睡している事を確認するように、大樹は小声で彼女の名前を呼び、柔らかい頬を軽く突く。そんな夫の行動にはまったく反応せず、響子が目を覚ます様子は無い。
「……よし」
 妻の様子を確認した大樹は、彼女を起こさないように慎重にベッドを抜け出し、足音を立てないように移動すると、部屋を出て薄暗い廊下を歩いた。
 そしてリビングルームへやってくると、灯りをつけずソファーの上へ腰を下ろす。
 ふと横を見れば、自分が家を出る時に持っていたケーキ店の紙袋が、ソファーの上に置きっぱなしになっていた。大樹は、紙袋の中に入れっぱなしだったスーツの上着を出し、ポケットから自身の携帯電話と一枚のメモ用紙を取り出す。
 薄暗いリビングルーム内で、大樹は数秒自分の手の中にあるメモ用紙を見つめていたかと思えば、おもむろに携帯電話のボタンを押し、どこかへ電話を掛け始めた。
『……ただいまお掛けになった番号は、電波の届かない所に……』
 数秒のコール音の後、留守番電話に切り替わった音声が聞こえ、彼は小さく溜息を吐く。こんな夜中に電話しているのだから、出ない方が当然かと苦笑してしまった。
「……もしもし。俺だけど」
 大樹は電話を掛けた相手へのメッセージを残すため、自分以外誰も居ないリビングルームで、ゆっくりと口を開いた。
「まさか君が家に来るとは思ってなかった。あの時、俺は確かに言ったはずだよ、もう二度と関わるなって」
 最初は穏やかな口調で喋っていたが、その声はどんどん鋭さを増していく。
「君も見たはずだ。俺は今あの子と暮らしてる。言っておくけど……俺、別れる気は無いから。君が今更何を言おうと無駄だ」
 鋭さを増していく大樹の声は、次の瞬間信じられない程冷たいものへ変わり、電話を掛けた相手に向かい最後の言葉を口にする。
「……彼女には一切手を出すな。もし何かしたら……俺は、お前を一生許さない」
 そう言った瞬間、留守番電話の録音終了を告げる音が大樹の耳へ届く。携帯電話を耳から離せば、彼はあからさまに舌打ちし、テーブルの上へ電話を放り投げた。
「……はぁ」
 大樹は大きな溜息を吐くと、ソファーに自身の体を預ける。そして、彼はそのまま視線を自分の左側へ向けた。その視線の先、自宅一番奥の部屋には、今も穏やかに眠っている妻が居る。
「あー……完璧俺のミスだ。あの時もっときつく言っておけば」
 過去の自分の行動を後悔しながら、彼は左手に持っていたメモ用紙を己の顔の前へ掲げる。そこには、たった今電話をした相手であり、日中にマンションを訪れた女から大樹へのメッセージが記されていた。
 大樹はメモ用紙に書かれた文字を冷めた視線で見つめた後、その紙を限界まで細かく破り、右手で破った紙屑を握ると、右腕で自身の視界を覆い隠す。
「帰ってきた時、目赤かった。絶対泣いてたよな。……ごめんね、響子ちゃん。嫌な事に巻き込んで」
 そして不意に、今この場には居ない妻へ謝罪の言葉を口にする。思い出すのは、自分が帰宅した時明るく振る舞っていた妻の顔。そんな彼女の目元がいつもと違うという事に、大樹はすぐ気付いていた。
「君は……君だけは守るから」
 酷く辛そうなその言葉を、彼以外誰も聞く事は無かった。
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