契約書は婚姻届

25.晴れのち曇り

『……大好きだよ、響子ちゃん』
 結婚してから一年が経ち、ようやく互いに想い合う関係を築けた響子と大樹。
 それからしばらく経った十一月中旬のとある日曜日、響子はキッチンで昼食の準備をしている真っ最中だった。
「うん。今日も美味しい!」
「大樹さん、もう味見ならしましたから。あと、せめて小皿使ってください」
 親子丼を作っている響子の隣に突然やってきたかと思えば、大樹は既に完成している中華スープが入った鍋の蓋を開け、鍋の中に入っていたお玉から直にスープを飲む。すぐ隣で行われた旦那の行動に響子が気付かないわけはなく、間髪を容れず呆れた様子でそれを咎める。
「いいじゃない、ちょっとくらい。本当は、そっち味見したいんだけど……流石に無理だし。だからスープで我慢!」
 注意された事が不満なのか、妻の言葉に文句を言う大樹。その姿はまるで、母親からつまみ食いを注意された子供の様だ。響子は溜息を吐きながら、丁度良い状態に仕上がった親子丼の具をあらかじめ丼ぶりに盛っていたご飯の上へ乗せる。
「あとちょっと我慢すれば完成なんですよ? 少しくらい待っててください」
「そのちょっとが我慢出来ないんだな、これが。早く響子ちゃんのご飯食べたいの」
 妻からの注意の声にまったく耳を貸そうとしない大樹は、そう言って彼女の唇を塞ぐ。
 突然の口付けに目を見開く響子だが、右手には菜箸、左手には親子鍋を持っている。両手が塞がった状態では抵抗する事も出来ない。それに、彼女自身、夫とのキスを嫌がっているわけでは無いため、抵抗する事無くそれを受け入れる。
 腰に回された腕に力が入り、体を引き寄せられる。ちらりと横目でガスコンロの火がついていない事を確認し、せめて料理が終わってからの方が良かったな、と心の中で苦笑しゆっくりと目を閉じた時だった。
「ゴホン、ゴホン。……いちゃつくなとは言わないが、せめて俺が帰った後でやってくれないか」
「っ!?」
 背後から聞こえた第三者の声に、響子の意識は一気に現実へ引き戻される。それと同時に、現在の状況を思い出し慌てて大樹から離れようとするが、しっかりと腰に回された彼の腕のせいで逃げる事が出来ない。
「誠司……お前はもうちょっと気を利かす事が出来ないのか。せっかくの夫婦の時間邪魔すんな」
「どうせ来るなら昼飯も食べていけと言ったのはお前だろ。だから俺は予定より早く来たんだ。それに……俺が何も言わなければ、昼食を食べれないだけじゃなく、約束の時間にまで遅れそうだったしな」
 自分の頭上で繰り広げられる言葉のやりとりに、響子は自分の顔がだんだんと熱を持ち始めるのを感じる。穴があったら入りたいという言葉を思い出し、まさに今そんな状態なのだと恥ずかしくなる。
 今日この家に居るのは自分と夫の二人だけでは無い。大樹の友人である藤原誠司が居るのだ。
 午後から誠司と共に出掛ける用事があると言う大樹が、どうせなら一緒に昼食でもどうだと、彼を自宅へ招待した。
 元日以来誠司に会っていなかった響子は、昨夜夫からこの話を聞いた時すぐに了承した。
 大樹の友人が来るという事で、いつもより気合を入れて料理を作っていたはずなのに、今自分は夫の腕の中で顔を赤くしている。キスをした瞬間、頭の中からすっかり誠司の存在が消えていた。その事を本人に謝りたくても実際に実行するわけにはいかず、彼女の中に何とも言い難いもどかしさが生まれる。
「大樹さん、あの……離してくれませんか?」
 恥ずかしさを必死に我慢し、響子は自分を抱きしめる夫を見上げ、離して欲しいと訴える。二人が互いの顔を見つめ合う事数秒、大樹は視線を妻から友人へ移した。
「……誠司、お前その辺一時間くらい散歩してきてくんない?」
「昼間から盛ってないで、さっさと響子さんから離れろ。この阿呆が」
 真剣な大樹の訴えは、問答無用で誠司に却下されてしまった。



「はぁ……行きたくない。もの凄く行きたくない」
「諦めろ。お前も行かなきゃ話にならん」
 昼食を食べ終えた後、すぐに出掛けると言う大樹達を、響子は玄関まで見送りに来ていた。だが、先程から彼女の目の前では男達が同じやり取りを繰り返している。
 これから出掛けるであろう場所に行きたくないと大樹が言えば、諦めろと説得をする誠司。そんなやり取りに、響子は元日に誠司が言っていた言葉を思い出す。
『あいつの相手をする時は、図体がデカい子供を相手にしていると思って接した方が気が楽になりますよ』
 確かに今の夫は駄々をこねる子供のようだ。そしてそれを説得する誠司は、どこか大樹の母親のようにも見える。
 微笑ましく二人の様子を眺めていた彼女は、大樹が手に持つ紙袋に目を留めた。それは、以前大樹と一緒に行ったケーキ店のもの。
 この家に越してきてから、響子は家の中にあった物や、その後の買い物で手に入れた紙袋などを一箇所にまとめて置くようにしていた。大樹が持っている物は、その中から選んだ物だろう。
 紙袋を持っているという事は、その中には何かが入っているという事。外出先で何か必要な物なのかもしれない。
「それでは響子さん、少しの間大樹をお借りします。多分、夜までには戻れると思いますので。お昼まで御馳走になってしまってすみませんでした」
「いいえ、そんな。またいつでも遊びに来てください」
 軽く頭を下げる誠司に、慌てて手を横に振り、また遊びに来て欲しいと自分の気持ちを伝える。響子の言葉に小さく笑みを浮かべた誠司は、行くぞ、と大樹の腕を引っ張り、玄関のドアを開け外へ歩き出す。
「離せー、誠司の馬鹿ー。響子ちゃーん、すぐ戻るからね。お土産買ってくるからー」
 最後まで行きたくないと抵抗した大樹だったが、誠司に引き摺られるまま、彼は外へ出て行った。
「……いってらっしゃい」
 終始子供のような態度の夫に対して苦笑するしかなく、心の中で誠司に頑張ってとエールを送りながら、彼女は玄関で男達を見送った。



「……はぁ。今日はのんびりするはずだったのに」
「……まだ言うのか。もう外に出てしまったんだ。逃げようなんて思うなよ」
 自宅を出た後、一階へ降りるため、大樹達はエレベーターへ乗り込んだ。未だ落ち込んだ様子の友人に、誠司は呆れた様子で声を掛ける。
「誠司、今日が何曜日か知ってる? 日曜日だよ。日曜日! 一般的には仕事は休みなの。それなのに……それなのに……何で今日なの」
 今まで落ち込んでいたかと思えば、大樹は突然大声で友人に詰め寄る。しかし、自分が発した言葉にショックを受けたのか、再びガックリと肩を落とす。
「忙しい奴だな、お前。……今日しか都合の良い日が無かったんだ。普段、お前の我が侭を聞いてるんだから、たまにはこっちに合わせろ」
 誠司が落ち込む友人に冷めた視線を向けていれば、一階に到着した事を告げる音と共にエレベーターの扉が開く。その事に気付いた誠司は、大樹を無視し一足早くエントランスへ向かい、そのままマンションの外へ出て行く。
 友人の気配が遠くなった事に気付いた大樹も、現状を把握し慌ててエレベーターから降りると、誠司の後を追いかけた。
「豊君、美沙ちゃん。仕事お疲れ様。少しお願いがあるんだけど、いいかな?」
 エントランスには、今日の担当コンシェルジュである工藤と数少ない女性コンシェルジュ美沙の姿があった。二人の姿を見た大樹は、その場に足を止め、二人に軽く挨拶をし、お願いがあると言葉を続ける。
「……? お願いとは何でしょう? もちろん、私達に出来る事ならご協力しますが」
 大樹の言葉に、一瞬互いの顔を見つめ合い首を傾げた二人だったが、美沙がすぐに頷き協力すると口を開く。
「ありがとう。別に二人に何かして欲しいわけじゃないんだ。その扉の奥にさ、控室あるでしょ?」
 そう言って大樹は、工藤と美沙が立っているすぐ後ろにあるドアを指差す。その向こうはコンシェルジュ達の控室になっており、着替えや休憩、防犯カメラの映像チェックなどが出来るスペースがある。
 このマンションにもう何年も住み続け、すっかりコンシェルジュ達とも打ち解けている大樹は、扉の奥が控室になっている事を知っていた。
 その直後、マンションの外へ出て行ったはずの誠司が再びエントランスへ戻ってきた。彼の姿を見て工藤達は軽く頭を下げる。
「ちょっとね、その控室を貸して欲しいんだ。変な事には使わないよ。俺と誠司が着替えるために使わせてもらいたいなと思ってね」
「着替え、ですか?」
「そうそう。流石にこの恰好じゃ行けないんだ。これに着替えてから行かないと」
 首を傾げる工藤に、大樹は苦笑しながら自分の持っていた紙袋の中身を見せる。その中には、黒いスーツが入っていた。



「あー、もう疲れた」
 大樹達が出掛けてから一時間程経過した頃、響子はリビングルームにあるソファーに疲れた顔で横たわっていた。
 結婚して一年以上が経過し、相思相愛の関係になってから一ヶ月程。彼女は今日、友人達にあるメールを送った。
 その内容は、前のマンションから引っ越した事、そしてここの住所を伝えるものだ。メールでやりとりをしている友人達にはメールで、他の知り合いには数日中にハガキを出す予定でいる。
 この家に越してから既に一年以上経っていた。そのため、郵便局で申し込んだ転送サービスの期間はとっくに終了している。
 なかなか決心が出来ず先延ばしにしていたが、一人になったこの時とばかりに、響子は一先ずメールでやりとりをしている友人達に住所が変わった事を知らせた。
 メールを送った数分後から今までの間、響子はずっと携帯電話を手に持ち喋り続けていた。
 電話を掛けてきた相手は引っ越しメールを送った友人達。しかもすべて女性からだ。彼女達は皆、響子が電話に出た瞬間同じような問いを口にした。
『何故そこに住んでるの?』
 電話を掛けてきた友人達が注目したのは、やはりこのマンションの住所だ。年末の年賀状事件の時恐れていた事が現実になってしまったと、響子の気分はどんどん沈んでいく。
 他にも、セレブと結婚したのかと聞かれた時もあった。しかし、言葉は違えど、響子に聞きたい事は皆同じである。OLである響子の給料では絶対に住めない地域の住所が書いてある理由だ。
『い、今お付き合いしてる人と……一緒に暮らしてるから、なんだ』
 友人達の質問に、彼氏の家で一緒に暮らしているからとしか答える事が出来なかった。
 独身の友人達は、そんな彼氏を紹介して欲しいと言っていたが、彼が極度の人見知りだから、などと理由をつけ響子は全て断った。
 皆、彼氏を紹介して欲しいと言っているが、彼女達の真の目的は別の所にある事を響子は理解していた。友人達の真の目的、それは響子の彼氏の友人達と親しくなり、セレブな彼氏をゲットする事だ。
 テーブルの上に置いた携帯電話が鳴っていない事を横目で確認しながら、響子はソファーに横たわったまま、女は怖いと溜息を吐く。
「ま、嘘はついてないし、ね」
 自分以外誰も居ないリビングルームで、彼女は一人呟いた。大樹との関係は恋人ではなく夫婦だが、彼の家で一緒に暮らしている事は事実だ。嘘はついていないと、自分自身を納得させる。
 これからしばらくの間、こんなやり取りが続くのかと思うと憂鬱でしかない。
 現在大樹との夫婦関係はかなり良好だろう。そんな今なら結婚の事を隠す必要は無いのでは、と彼女は考える。
 そもそも、夫がここまで結婚の事実を隠そうとするのは一体何故だ。借金返済のための結婚ではあるが、この家に来てから数か月経ったある日、両親から借金は全部返せたと電話があった事を思い出す。大樹が約束通りお金を用意してくれたらしく、両親は泣いて喜んでいた。
 借金の肩代わりをしてもらったからと、最初の頃は大樹との生活を我慢していた。しかし、今となっては毎日の生活が楽しくて仕方ない。相変わらず夫に振り回される事もあるが、最終的に彼女はそれを受け入れている。
 現状で結婚している事を隠す理由を考えるが、一向にその理由が思い付かない。響子自身、始まりは最悪だが今は大好きになった人と結婚している事実を、もう隠しておきたくなかった。
 こうなったら、今夜直接本人に聞いてみようか。そんな事を考えていた時、突然リビングに置いてある電話の着信音が耳に届いた。
「今度は誰?」
 響子は疲れた体を引きずるようにソファーから立ち上がり、固定電話の前へ移動する。そして電話を取ろうとするが、受話器へ伸ばしかけた手が一瞬止まる。
 固定電話に掛かってきた電話に対応しているのは毎回大樹だ。それなのに自分が電話に出て良いのだろうか。
 迷っている間も、ずっと鳴り続けるコール音。この場に今大樹は居ないため、電話に出れるのは自分のみだ。迷いはあったが、もし緊急の用事だったらと考え、響子は意を決して受話器を取り耳に当てた。
「も、もしもし」
「もしもし、水越様ですか? どうも、こんにちは。俺、工藤です」
 電話を掛けてきたのは、どうやらコンシェルジュの工藤らしい。緊張した声で電話に出れば、耳に届いた見知った人物の声に一気に力が抜ける。
 大樹がマンションで働いている人々と親しくしているお陰か、響子に対しても皆優しい態度で接してくれている。特に年齢が近いという事もあり、今や美沙と工藤はたまに世間話をする仲になった。
 本当はもっと丁寧な口調で喋らなければならないのだが、工藤自身、電話を掛ける相手が響子という事もあり砕けた口調になっていた。
「豊君、どうしたの?」
「今ですね、水越様宛にお荷物が届いたんですよ。結構大きいし重たいので……少し時間掛かっちゃいますけど、そちらにお運びしますね」
「え、私宛の荷物、ですか? あの、差出人の所に書いてある名前、教えてもらってもいいですか?」
 工藤の話によれば、響子宛ての荷物が届いたが、大きく重さもあるため家まで運んでくれるらしい。
 自分で何か商品を注文した記憶が無い響子は、慌てて差出人の名前を彼に尋ねた。すると、工藤の口から自分の母親の名前が告げられる。両親はここの住所を知っているため、自分宛てに届いた荷物の謎が解け、彼女は不思議な安堵を感じていた。



 自宅まで持って行くと言う工藤に対し、響子は今から自分が下まで荷物を取りに行くと言った。しかし、いくらエレベーターがあるとは言え、重い荷物を女性に持たせるわけにはいかないという彼の言葉に負け、申し訳無いと思いながらも頷くしかなかった。
 今やっている事を片付けたらすぐ届けに行くという工藤の言葉に、電話を終えた響子は、いつ彼が訪ねてきても良いようにと、玄関へ移動し到着を待つ事にした。
 工藤との電話を終えて十分程時間が経過した時、来訪者を知らせるチャイムの音が彼女の耳に届いた。
 重い荷物を持っている工藤を待たせてはいけないと、響子は急いで靴を履き、玄関の鍵を開けドアノブに手を掛ける。
「豊君、わざわざ持ってきてもらってごめ……」
 ドアを開けた響子は、当然荷物を持った工藤がそこに立っていると思っていた。労いの言葉を口にした彼女だったが、目の前に立つ人物を見た瞬間、驚きのあまり言葉を失う。
「ちょっと、貴女誰?」
 そこに立っていたのは、ウェーブの掛かった茶髪のロングヘアーが似合うスタイルの良い美人な女性。自分の予想とは違う人物、しかも初めて見る女性の姿に響子は呆然とするばかり。
「ここ、大樹の家でしょ。何で女が出てくるのよ。大樹ー、どこに居るのー?」
 女は響子の事など気にせず家の中を覗き込み、この家の家主の名前を呼ぶ。家の中を覗き込むために近付いてきた彼女の香水の匂いが、響子の鼻を刺激した。
 この女性はもしかして。ふと、考えたくない単語が響子の脳裏に過った。
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