契約書は婚姻届

24.気持ちがつながった夜

 まったく期待などしていなかった結婚記念日。
 響子の予想を裏切り、サプライズ演出をした大樹の気持ちに感極まった彼女は、今までひた隠しにしていた想いも手伝い夫の胸へ飛び込んだ。
 抱きついた拍子に、せっかく貰った花束を床に落としてしまったが、後でちゃんと拾おうと思いつつ、響子は自分より大きな背中に腕を回す。
「えっ? えっ? 響子ちゃん、大丈夫? 床の何か落ちてた?」
 突然自分に抱きつく妻の行動に驚いた大樹は、困惑し反射的に広げた腕を下ろす事も出来ず、中途半端にそれを広げた状態で立ち尽くすのみ。
 床に落ちていた何かに彼女が躓いたせいでこんな事が起こったのではと、必死になって問い掛ける。
 そんな困惑する夫の姿に、響子は心の中で苦笑する。感動した妻が嬉しさのあまり抱きついているというのに、こんな対応をしてしまう残念な所も、この人らしいと言えばこの人らしい。
 何かに躓き、咄嗟に夫の体に抱きついたわけではない。この行動は、響子本人の意思によるものだ。それを証明するように、彼女は夫の背中に回した腕に力を入れ、目の前にある胸板に額を押し付ける。
「…………」
 自分の胸に押し付けられた額、そして抱きつく腕にこもる力。その二点に何かを感じたのか、先程まで慌てていた大樹は不意に無言になる。無言になった夫の様子に、今度は響子が困惑し始める番だ。
 勢いで抱きついてしまったのは良いが、この後の事を彼女はまったく考えていなかった。自分でも大胆な事をしているのは充分理解している。理解しているからこそ、夫から離れた後の事を想像すると、恥ずかしすぎて背中に回した腕を離す事が出来ない。
 突然の行動について謝罪さえすれば、おそらく優しい大樹は許してくれるだろう。それは良いが、問題はその後だ。お互い気まず過ぎる状況で食事など出来るわけがない。
「……はぁ」
 これからどう行動するのが一番なのかを必死に考えていた響子の耳に、頭上から深い溜息が聞こえた。その犯人は間違いなく夫だ。確かに、突然訳も分からず抱きつかれれば、溜息も吐きたくなるだろう。
 響子が自分の行動を後悔し始めた時、大樹は真っ直ぐダイニングルームの壁を見つめ、今まで閉じていた口を開いた。
「……どんだけ好きにさせる気なの」
「……?」
 気を抜いていれば聞き逃してしまう。そう思う程の声だった。しかし、しんと静まり返ったダイニングルームでは、そんな小さな呟きも聞こえてしまう。
 大樹が発した呟きが聞こえたのは良かったが、響子はその意味を理解出来ず、今まで夫の胸板に押し付けていた顔を少し上げ、様子を窺うように視線を上へ向ける。
 そして、夫の顔を見た彼女は、驚きのあまり声が出そうになるのを寸前の所で堪えた。その一瞬、妻へ視線を向けた大樹と目が合ってしまう。
 何と声を掛けたらいいのだろう。そんな事を思っていれば、不意に自身の背中に太い腕が回された事に気付く。そして、後頭部には自分より大きな手が触れ、再び響子の額は大樹の胸へ押し付けられた。
 突然の事に驚きながら、もぞもぞと体や頭を動かしてみるが、頭と背中に触れているもののせいでまったく動く事が出来ない。自分の身体に触れているもの。それが大樹の手と腕だと理解し、恥ずかしさと同時に驚きを感じる。
「はいはい、しばらくこのままね」
 頭上から聞こえてきたのは、すっかり聞き慣れた声だ。その声と共に、何故か大樹の腕と手にこもる力が僅かに強くなった事に気付く。
 なんで私は大樹さんに抱きしめられてるんだろう。身動きが取れず、頭上から聞こえた言葉を聞き、響子の脳裏に浮かんだのは疑問だった。
 抱きついたのは自分の方が先。そんな妻の行動を、夫は嫌がるものと思っていた。しかし、何故か今は逆に抱きしめられている。
 胸板に押し当てられた額に伝わる熱。まるで離さないと言いたげな抱きしめる腕の強さ。しばらくはこのままだと言った夫の言葉。響子の頭の中はますます混乱していくばかり。
「あ、あのっ! 大樹さん……はな、して……ください」
「うーん、まだ駄目ー。もう少し待ってて。今の俺の顔、ちょっと大変な事になってるから」
 とにかくこの恥ずかしい体勢から早く解放されたい。その一心で夫に気持ちを伝えた響子だったが、そんな彼女の想いは大樹に届かず、あっさりと却下されてしまった。
『今の俺の顔、ちょっと大変な事になってるから』
 夫の言葉に、響子は数秒前目にした光景を思い出す。一瞬様子を窺おうと顔を上げた時、大樹の顔は彼女が驚く程赤くなっていた。今まで夫がそんな顔をしている所など見た事の無い響子にとって、かなり衝撃的な光景に思えた。
 風邪を引いている様子は無いため、発熱からくるものでは無いだろう。だとしたら、何故大樹はあんなにも顔を赤くしているのか。
「大樹さん、大丈夫、ですか?」
「大丈夫なように見える?」
 心配して再度声を掛ければ、質問に質問で返してくる夫。わからないから聞いているのに、何故逆に質問されてしまうのか。不満を言うために顔を上げようとするが、しっかりと額を胸へ押し付けられているため、動かす事は不可能だ。
「はぁ……」
 再び耳に届く夫の溜息。溜息を吐きたいのはこっちだ。そんな不満を心の中で呟かずにはいられなかった。
「ねーねー、響子ちゃん」
「……何ですか」
 自分の名前を呼ばれ、何だと響子は口を開く。大樹は相変わらずダイニングルームの壁を見つめ、響子は夫の胸に額を当てた状態での会話は、傍から見ればかなり不思議な光景に見えるだろう。
「響子ちゃんってさ、確信犯なの?」
「……はい?」
 今までこの男の言動には何度も振り回されてきたが、今回の発言は意味不明すぎる。いきなり確信犯かと聞かれても、それが響子自身のどの言動に対するものなのか分からない。
 疑問形で返事をする妻の様子に、大樹は再び溜息を吐く。この男は、一体何度溜息を吐けば気が済むんだ。
「絶対確信犯だよ。そうじゃないなんて有り得ないね」
 うんうん、と自分の言葉に勝手に頷き一人納得している様子の大樹。そして、依然頭の中は疑問符だらけの響子。
 何故かはわからないが、夫は妻を何かの確信犯だと決めつけてしまっている。自己解決されてしまっては、こちらばかりモヤモヤが残ってしまうではないか。
「あの……一体何がどう確信犯なんですか?」
 響子は、恐る恐る視線を上へ動かし、大樹へ疑問を投げかける。本当はしっかりと顔を見て疑問をぶつけたい所だが、抱きしめらえている状態のため、視線を上へ動かしても見えるのは夫が着ている服のみ。
 帰宅してから次々と起こった驚きの出来事のせいで意識していなかったが、ふと、夫の服装がいつものスウェットやジャージでは無く、外出時に着るカジュアルなものだと気付く。食事の用意や花束を買うために外出したのだろうか。
「うわ……まさかの無自覚かよ」
 響子の問いかけに、大樹は思わず独り言を呟く。あまり見ない夫の服装に意識を向けていれば、頭上から聞こえた声色が、いつもよりほんの少しだけ低い事に響子は気付いた。
「響子ちゃんは無自覚のまま、ずっと俺を翻弄してたわけね」
「ほ、翻弄って……私は別に何もしてませんけど」
 突然の夫の言葉に困惑した響子は、出来る限り首を横に振り否定する。しっかりと額を胸へと押し付けられているせいか、グリグリとその胸に額を擦る形になってしまった。
「してるよー、いっぱい。毎回毎回、俺は色んな意味で困ってたんだからね」
「だから! 私が一体何をしたって言うんですか?」
 いつまで経ってもはっきりしない夫にだんだんと苛立ち、響子は今までより大きな声を発した。そんな妻の問いに、大樹はしばし黙り込む。
「ねぇ、響子ちゃん。……もし、さ。俺が君の事……好きになっちゃった、とか言ったら……どうする?」
「えっ?」
 夫から告げられた予想外の言葉に、響子は自分の耳を疑ってしまう。
「どうするも何も……そんな事言われても困るだけだよね。……ごめん、今の事は忘れていいから」
 そう言うと、大樹は今まで妻を拘束していた腕の力を緩め、彼女の両肩に手を置き、そっと距離を取ろうとする。自分から離れようとする夫の行動に、響子は再び抱きついた。夫から離れまいと、背中に回した腕にしっかりと力を込める。
『俺が君の事……好きになっちゃった、とか言ったら……どうする?』
 大樹が言った言葉。もし自分の解釈が間違っていなければ、夫から好きだと告白されたのではないか。響子の中でそんな仮説が生まれる。まだ本人に確認したわけではない。しかし、それがもし事実だとしたら、こんなにも嬉しい事は無いだろう。
 先程とは違い、自分の身体を拘束するものは無い。彼女は、大樹の様子を窺うように、抱きついた状態で顔を上げた。
「…………」
 目にしたのは、妻の突然の行動に驚いているのか、目を見開き固まっている夫の姿だった。そうなってしまうのも仕方ないのかもしれないと響子は苦笑する。そのうち、驚いた様子の大樹と不意に目が合った。
 自分の口から『貴方が好き』と伝えられれば、きっと簡単な事だと思う。もう子供では無いと理解していながら、やはり自分の口から想いを伝える事に少々恥ずかしさを感じてしまった。その結果、夫の体に抱きつくという子供っぽい行動を起こした響子。もう少し大人だったら、自分からすんなり想いを伝えられたのだろうか、と考えてしまう。
「こんな事されちゃったら……勘違いしちゃうよ? いいの?」
「……良く無かったら、普通抱きついたりしませんよ」
 これが最終確認だ。そんな風に言っているような夫の言葉に、響子は恥ずかしさを我慢し答える。
「ははっ、まーた、そうやってドキドキさせるんだから。……大好きだよ、響子ちゃん」
 妻の言葉に小さく笑った大樹は、いつも以上に優しい声で自分の気持ちを口にする。そして自分より小さな響子を改めて抱き締め、ゆっくりと顔を近付ける。その行動の意味を理解した響子は静かに目を閉じた。
 二人にとってこれが二回目。否、互いの気持ちが通じ合って初めての口付けだった。



 その日の夜。結婚してから一年、大樹が初めて響子を求めた。
「……ん」
「……あっ、……だい、き、さん。さっき、から……そこ、ばっかり……っ」
 響子が自室として使っている部屋の室内は、普段の何倍もの熱気が漂っていた。
 生まれたままの姿でベッドの上に横たわる二人。先程から執拗に胸を愛撫する大樹。彼が与える刺激に反応し、漏れそうになる声を我慢しようと、響子は下唇を噛む。
「あぁ、噛んじゃ駄目だって。我慢しなくていいんだよ。響子ちゃんの可愛い声聞きたいし」
 そんな恥ずかしい事を真顔で言える夫の神経に驚く。そんな事を言われて従う素直さなど、生憎響子は持ち合わせていなかった。
 尚も必死に声を我慢する妻の様子を見兼ね、大樹は今まで触れていた胸から口を離し、声を我慢する彼女の唇を数回舐め、唇を重ねる。重なった唇に、思わず響子が僅かに口を開くと、その瞬間を逃すまいと彼は妻の口内へ己の舌を挿入する。
 突然の事に驚き、逃げ腰になる妻の頭を大樹は優しく撫でた。まるで大丈夫だと言うようなその手つきに安心感が生まれる。
「ん……ふ、っ……んん」
 厭らしく絡められる舌の動きのみならず、夫の大きな手が胸に触れる刺激も加わり反応せずにはいられない。自分の与える刺激に素直な反応を見せる妻の様子に、大樹は嬉しそうに目を細めた。
 別れた元彼と最後に体を重ねたのはいつだったか、正直響子はよく覚えていなかった。しかし、大樹と出会ってから今日まで異性と共に朝を迎えた事は無い。
 そのためなのか、久しぶりに感じる強い快感に、まだ少し戸惑いを隠せない。しかし、そんな妻を安心させようと、優しく接してくれる夫の気持ちが嬉しかった。
 ずっと隠し続けようと思っていた自分の気持ち。言葉には出来なかったが、大樹に伝える事はきっと出来ただろう。しかも、大樹も同じ気持ちだなんて。互いの気持ちが通じ合い、今こうして彼の腕の中にいる。ああ、なんて幸せなんだろうか。
 この日の夜、夫から与えられる優しく甘い快感に、響子は自分の身を委ねた。



「……ん」
 翌朝、眠りから覚めた響子は、いつもの癖で目覚まし時計が置いてあるベッドサイドテーブルの上へ手を伸ばす。しかし、彼女の伸ばした手は何かにぶつかり、それ以上先へ動かす事が出来ない。
 一体何にぶつかったのかと、まだはっきりとしない意識の中ゆっくりと目を開ける。
「……っ!?」
 目を開けた瞬間、目の前には自分を見つめる夫の顔があった。いつもと違う光景に思わず息を呑む。自分の隣に横たわる夫。そして掛布団から出た彼の肩や腕、現在自分が服を着ていない事などを認識した途端、彼女は昨夜起こった出来事を一気に思い出した。
 どうやら、目覚まし時計を止めようと無意識に伸ばした手は、夫の体にぶつかってしまったようだ。いつもセットしているはずのアラームが鳴っていない様子から察するに、まだ起床予定時刻では無いのだろうか。
「……おはよう、ございます」
「うん、おはよう」
 昨夜この部屋で起こった出来事を思い出したせいか、みるみる顔が赤くなる。そんな顔を隠すように掛布団を目元まで引っ張りながら、響子は隣に居る大樹にぎこちなく挨拶をする。
 挨拶を返してくれる夫の顔を見れば、すっかり見慣れた無精ひげが、いつもより少しだけ濃い気がした。キスをした時、ひげが頬に当たって痛かったなんて思い出せば、また恥ずかしさがこみ上げる。
 別に昨夜の事を後悔しているわけでは無い。しかし、改めて事実を認識するのが恥ずかしいだけだ。
 そんな事を一人で考えていると、不意に大樹の頬が薄らと赤くなっている事に気付いた。思わず手を伸ばし、その部分に触れ数回撫でる。
「あの。ここ、どうしたんですか?」
 昨夜、彼の頬にこんな赤みは無かったはず。寝ている間に何かしたのだろうか。不思議そうな顔をする妻の様子に、大樹は眉を下げ情けなく笑った。
「えーっと、ね。その……朝起きたら、隣に響子ちゃんが寝てて。夢じゃないかなーって思って、確認の為にほっぺた抓ったんだ」
 めちゃくちゃ痛かった、と苦笑する夫。そんな彼の言葉に響子は数秒無言になる。そして、自分の頬を抓る夫の姿を想像した瞬間、彼女は耐え切れず笑い出してしまった。
「ぷっ、あはは、あははは」
「ちょっと、笑うの禁止!」
 自分の失態を笑われてしまった大樹が慌てて注意する。しかし、響子の笑いは収まりそうに無かった。
「はぁ……仕方ないな。はいはい、笑うの禁止ですよー。……んっ」
「はは、あはは……っ、ん」
 大樹は笑い続ける響子を抱き寄せ、彼女の笑いを強制的にストップさせようと唇を重ねた。突然の口付けに驚いた響子だが、すぐにそれを受け入れ目を閉じる。
 じゃれ合う様に抱きつき、啄むような軽い口付けを交わす。かと思えば、互いを激しく求めるような深い口付けを交わしていく。
 響子の白い太腿に大樹の大きな手が触れ、誘う様に何度も擦る。互いの熱に浮かされたせいなのか、彼女は夫の望みに頷く。
 二人が再度深く口付けを交わした瞬間、無情にも起床時刻を告げる目覚まし時計のアラームが室内に鳴り響いた。
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