契約書は婚姻届

23.サプライズを君へ

 とある平日、会社でパソコンに向かい書類作りをしていた響子は、不意にキーボードの上で動かしていた手を止めた。
「…………」
 彼女の視線は、パソコン画面からデスクの上に置いてある携帯電話へ向けられる。左手でそれを手に取ると、待ち受け画面に表示された日付に目を向けた。
 待ち受け画面に表示されている日付は十月二十三日。大樹が役所に婚姻届を提出し、二人が夫婦となって今日で一年が経過していた。



「はい、それじゃ響子と大樹さんの一周年記念にかんぱーい」
「……あはは」
 会社の昼休み、響子と志保はランチでは滅多に訪れない場所に居た。
 普段は美味しさと安さを重視して昼食を選ぶ二人が今居るのは、ランチにしては少しばかり値段が高めのメニューが多い洋食店。いつも通り、定食を食べに会社近くにある食堂に行くものだとばかり思っていた響子を、志保は無理矢理この店へ連れてきた。
 そして注文した料理が運ばれてくると、志保は突然、水が入ったコップを手に持ち、友人達の一周年記念だと、周囲の客に迷惑にならない程度に祝いの言葉を口にした。
 突然すぎる友人の言動にただ苦笑いを浮かべるしかない響子は、今日この場に連れて来られた理由をなんとなく理解していた。
「志保、何もこんなお店に来なくてもよかったんだよ」
「何言ってんの、今日はお祝いだからいいの。あ、今日は私の奢りだからお財布出しても無駄よ。それに……既に料理来ちゃってるんだから、諦めて楽しみなさいって」
 コソコソと顔を突き合わせ、二人は小声で会話する。友人の口から聞こえた言葉に、響子は申し訳ないと思いながらも、こうして祝ってもらえるという事が素直に嬉しかった。
 一年前の今日、大樹から婚姻届を提出したとメールを貰った事を、響子は結婚報告時に志保に話していた。どうやら志保はその事を覚えていたらしく、こうしてささやかなお祝いをしてくれたのだろう。
「本当にありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて……いただきます」
 祝ってくれた友人の気持ちに対し感謝を伝え、響子は自分の目の前にあるフワフワとろとろのオムライスに一瞬視線を向けた後、両手を合わせ食事前の挨拶をする。
 スプーンでオムライスを掬い、そのまま口の中へ。口内に広がる美味しさに、自然と頬が緩むのがわかった。
「んー、美味しいね。流石人気なオムライスだけあるわ」
 同じオムライスを食べた志保も、その美味しさに満足そうな顔をする。
「このくらいしか出来なくてごめんね、響子」
「えっ!? な、何言ってるの志保。十分すぎるくらいよ。それに、お祝いしてもらった事自体嬉しかったし」
 普段は滅多に食べる事が出来ないオムライスに舌鼓を打っていれば、突然の友人の謝罪に、響子は慌てて首を横に振った。そして、素直に自分の気持ちを伝え笑みを浮かべる。
 そんな友人の笑みを見た志保は、ようやく口元に薄らと笑みを浮かべた。
「本当は……もっときちんとお祝いしたいんだけど。でもそこは、旦那さんの役目かなー、と思ってね」
 軽く首を傾け、からかうような口調で喋る志保の口から出た『旦那』という単語に、響子のスプーンを持つ手の動きが止まる。
「無いよ、きっと。それに、忘れてそうだもん」
「それは無いんじゃない? 今朝家出る時何も言われなかったの?」
 友人の問いに、響子は無言で首を横に振り、彼女の言葉を否定した。
 今朝いつも通り大樹と共に食事をしている時も、出勤するために家を出るまでの間も、夫の口から『結婚記念日』に繋がるような話題は一切出てこなかった。
 自分の誕生日ですら無頓着な人だったと知った年明けの事を思い出す。きっと元々そういった記念日に興味が無い人なのだろう。響子はそう考えていた。
 それに、いくら結婚記念日と言っても、自分達はたった一枚の紙で繋がっている夫婦だ。普通の夫婦のように、記念日と言えるかどうかすら怪しくなってくる。
 今こうして友人である志保に祝ってもらえるだけでも、十分すぎる程嬉しいのは変わらない。結婚記念日の祝いはこのランチという事にして、家に帰ったらまたいつも通りに夫と食事をしよう。
 今夜の夕食はビーフシチューの予定だ。響子は買い物をする時、材料の肉をいつもより少しだけ高い物にした。自分の中で、小さな記念日の祝いにと考えての行動だった。
『今日は私達の結婚記念日なんです』
 そんな事、実際言葉にして夫に伝える気など無い。興味の無い人間からすれば、一人で勝手に盛り上がっている人間程迷惑なものは無いだろう。
 心の中でひっそりと今日という日のお祝いをしよう。そう考えていた時、テーブルの上に置いてあった響子の携帯電話に一通のメールが届いた。マナーモードに設定していたため、テーブルの上で微かに振動する携帯電話を、彼女は手に取った。
「えっ!?」
 仕事関係のメールだろうかと思い、内容を確認しようとした響子は、差出人の名前を見た瞬間驚かずにはいられなかった。そして、慌ててメールを開き、本文の内容を確認する。
『今夜、もし何も用事が無かったら、真っ直ぐ家に帰ってきてもらいたいんだけど……どうかな?』
 本文を読んだ響子は、再度このメールを送ってきた人物の名前を確認する。差出人の欄には、しっかり『浅生大樹』と名前が表示されていた。



「…………」
 仕事を終えた響子は、寄り道をせず真っ直ぐ自宅のあるマンションへ帰ってきた。
 エレベーターを降り、いつものように自宅の前までやってくる。そしてドアを開けるため、バッグから鍵を取り出し鍵穴にそれを差し込んだ。それから既に何秒経過しただろうか。
『ほらー、やっぱり忘れてなかったじゃん。今夜楽しみだね』
 昼休みに夫から届いたメール。それを志保に見せた時の反応を思い出す。
 友人はあんな事を言っていたが、実際の事は自分で確かめないとわからない。響子は意を決し、鍵穴に差し込んだ鍵を回し、ドアを開けた。
 家の中に入ると、目の前には薄暗い玄関、そして廊下が続いている。いつも帰宅した自分が目にする光景に、響子は小さく溜息を吐いた。
「やっぱり、覚えてるわけない、か」
 あんなメールを貰い、そしてそれを見た友人のはしゃぎっぷりに、心のどこかで、もしかしてと思う自分が居た。
 しかし、いざ帰ってきてみれば、いつも通りの我が家だ。自嘲的な笑みを浮かべ、薄暗い玄関で履いていた靴を脱ぎ揃える。そして何故か、急に重いと感じるバッグの取っ手をしっかりと持ち直し、着替えるために自室へ向かおうと歩き出した。
「――だから、それじゃダメって言っただろ」
「……?」
 キッチンに通じるドアの前を通った時、不意に大樹の声が聞こえた気がする。その声は普段響子が耳にする気の抜けた声ではなく、どこか鋭さを感じさせる、はっきりとした口調だった。
 キッチンで誰かと電話で話しているのだろうか。邪魔をしてはいけないと思いながらも、普段滅多に聞かない口調で話す大樹の声に、響子の中で好奇心が大きくなっていく。
 音を立てない様ドアを少し開け、こっそりと中の様子を覗くと、やはりそこには夫の姿があった。携帯電話で誰かと話しているようだ。
「……うん。うん、そう。……わかった、また明日報告して。……はぁ」
 電話の向こうに居る相手との話が終わったのか、大樹は携帯電話を耳から離し、小さく溜息を吐いた。
「ありゃ、そろそろ響子ちゃん帰ってくるな。何でこんな時に電話なんてしてくるかなー。急がないと」
 携帯電話の待ち受け画面に表示された時刻を見たのか、ガシガシと己の頭を掻きむしる大樹。そんな夫の言葉に、響子の中に焦りが生まれた。
 夫はまだ自分が帰ってきた事に気付いていない。それなのに、こんな所で電話している姿をこっそり覗いていたなんてバレたら大変だ。
 ここは一旦外に出て、改めてたった今帰ってきた事にしよう。そう思い、こっそり玄関へ向かおうと方向転換し一歩踏み出そうとした時、突然背後でガチャリとドアが開く音がした。
「あっ」
 それに続き背後から聞こえた驚きの声。その瞬間、響子は歩みを止め、まるで壊れた人形のように、ぎこちなく後ろを振り返る。そんな彼女の視線の先には、眉を下げ困り顔の夫が立っていた。
「えーっと……おかえり?」
 突然自分の目の前に現れた妻の姿に、おかえりと言葉を発するも、大樹の表情は困った様子のままだ。
「……ただいま、帰りました」
 予想外の出来事に響子は夫の方へ向き直るも、視線を自分の足元へ向けてしまう。まさか貴方が電話している姿を覗き見していました、なんて言えるわけもなく、だからと言ってこの場から逃げる事も言い訳も思いつかない。
 反射的にただいまと返事をしたのは良いが、その後に続く言葉が出てこない。こんな時、一体どんな風に話せば良いのだろう。
「うーん、これは予想外、だなー」
 その時だった。不意に頭上から聞こえた夫の言葉の意味が理解出来ず、思わず響子は顔を上げる。そこには、困った様子のまま、己の頭をガシガシと掻く夫が居た。
「仕方ないか。響子ちゃん、ちょっとダイニングで待っててね」
「えっ? 大樹さん?」
 今まで困り顔のまま佇んでいた大樹は、突然響子にダイニングルームで待っているよう言い残すと、一人さっさと廊下の奥へ消えていった。



「ダイニングで待っててって、一体何なの。……えっ?」
 自分に待っているようにと言い残し、どこかへ去っていった夫。そんな大樹の言葉に首を傾げながらも、言われた通りダイニングルームへ向かった響子は、目の前に広がる光景に目を見開いた。
 会社から帰宅し自分が夕食を用意するまで、いつも何も物が置かれていないはずのテーブル。しかし今日は、その上に二人分の食器が綺麗に並べられていた。
 テーブルの中央には、浅い鍋に盛り付けられた美味しそうな匂いの湯気が立つパエリア、その隣にはサラダボールが置かれている。そして、いつも二人が座る席には、響子が今晩のためにと用意しておいたビーフシチューが盛り付けられた食器と、取り皿用と思われる食器がいくつか並んでいた。
 目の前にあるのは、見慣れた自宅のダイニングルームだというのに、まるで小洒落たレストランに来たのかと錯覚してしまう。
「くすっ……吃驚した?」
「っ!? 大樹さん」
 普段と違い過ぎるダイニングルームの光景に驚いていると、不意に後ろから声を掛けられ、慌てて響子は後ろを振り返る。そこには、両手を自分の背中へ回し、驚く妻の様子に目を細め嬉しそうな笑みを浮かべる大樹が立っていた。
「どうしたんですか、この料理」
 改めてテーブルに並ぶ料理を見つめながら、この料理を用意したであろう人物に疑問をぶつける。
「パエリアが凄く美味しいって評判のスペイン料理のお店があって、ずっと前から気になっててさ。配達もしてくれるって言うから頼んでみたんだ。パエリアとビーフシチューの組み合わせは……ちょっと微妙なのかもしれないけど、せっかく響子ちゃんが作ってくれたし、たまにはいいかな、と思って。サラダは一応作ってみた……って、ちぎったり切ったりしただけだから、作ったとは言えないだろうけど」
 テーブルの上に並んだ料理について、大樹は一つ一つ説明をしていく。
 そんな事より聞きたい事がある。何故いつもより豪華な料理がテーブルの上に並んでいるのか。響子はその理由が知りたかった。
 何故大樹はこんな手の込んだ事をしたのだろうか。目の前に立つ夫へ向き直り、響子は顔を上げ問いかけるように彼の目を見つめる。
「…………」
 妻の視線に気付いた大樹は、不思議そうな様子の妻をしばし見つめると、口元に小さな笑みを浮かべ、背中へ回していた腕を動かし彼女の目の前に色鮮やかな花束を差し出した。
「はい、プレゼント」
「え、あの……プレゼントって?」
 突然手渡された花束を反射的に受け取ってしまった響子は、自分の手の中にある綺麗な花束と、目の前で笑みを浮かべる夫を交互に見つめ疑問を投げかける。
 不思議そうな妻の視線に、大樹は何故か恥ずかしそうにポリポリと己の頬を掻きながら口を開いた。
「だって……今日は、ほら。結婚して一年経った日、だから……ね」
 あからさまに響子から視線を逸らし、薄らと頬を赤くし恥ずかしそうにする夫。そんな彼の頬を掻く左手を見た響子は、そこから目を離せなくなってしまった。
 恥ずかしそうに頬を掻く夫の左手。その指には、いくつも絆創膏が巻かれていた。絆創膏を巻く理由など、考えられる事は一つだ。
『サラダは一応作ってみた……って、ちぎったり切ったりしただけだから、作ったとは言えないだろうけど』
 先程大樹から聞いた説明を思い出す。昼間に突然送られてきたメール、テーブルの上に用意された料理、プレゼントされた花束。そして指に怪我をしている夫。
 大樹は、今日が二人の結婚記念日だという事を忘れてなどいなかった。それどころか、記念日を祝おうと料理の手配をし、花束を買い、慣れない包丁を持って怪我までしてサラダを作った。
 元々は、両親が背負ってしまった借金を返済するために仕方なくした結婚。徐々に浅生大樹という人間を知っていき、この男の優しさに触れ、いつしか好意を抱き始めた。
 困っている時は必ず助けてくれる。優しい言葉を掛けてくれる。一緒に笑いあう日々が続いている。そんな毎日だけで十分だと思っていた。
 それなのに、忘れていてもおかしくない記念日をしっかり記憶し、妻を驚かせるために必死に準備していたなんて。
「……っ!」
 響子は、自分の中から次々と湧き上がってくる想いを我慢する事が出来なかった。目に薄らと涙を浮かべ、貰った花束を手にしたまま、目の前に佇む男の胸へ飛び込み、しっかりとその両腕を彼の背中へ回し思いきり抱きついた。
 浅生大樹という男が愛おしい。ずっと隠し通そうと思っていたのに出来なかった。この感情を隠し通す事など最初から無理だったのかもしれない。
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