契約書は婚姻届

お子様な旦那様(後編)

「誠司さん、コーヒーお待たせしました。良かったらこれもどうぞ」
 男二人が黙り込んで数分、二つのマグカップと、個別包装のクッキーが入った小さな容器をトレーに乗せ、響子は彼らのもとへ戻ってきた。
 そして、誠司の目の前にブラックコーヒーが入ったマグカップを置き、テーブルの中央にクッキーが入った容器を置く。
「わざわざすみません、気を遣わせてしまって」
「大丈夫ですよ。はい、大樹さんもどうぞ」
 誠司の言葉に返答し、彼女は、トレーの上に残っていたもう一つのマグカップを大樹の目の前へ置いた。
「…………」
 目の前に置かれたマグカップの中身を、身を乗り出して覗き込む大樹の姿が妙に可愛らしいと、響子は緩みそうになる口元を慌ててトレーで隠した。
「響子ちゃん……これ、何かな?」
 大樹は、マグカップの中身を見た途端、僅かに口元を引き攣らせ小さな手でマグカップを指差し、自身の傍に佇む響子を見上げる。
「……? ホットミルクです」
 響子は、何故小さくなった夫がそんな事を聞いてくるのか分からないと、一瞬首を傾げた後彼に出した飲み物の名称を口にする。
「ぶっ! くっくっく……」
 そんな彼女の答えに、大樹はあからさまに不機嫌な表情を浮かべ、二人のやりとりを見た誠司は我慢出来ずに笑い出してしまった。
「何で誠司にはコーヒーで、俺にはホットミルクなの!? って、そこ! 誠司、笑うな!」
 二人のマグカップの中身が違う事に腹を立てる大樹は、口元を掌で覆い隠しながら笑い続ける友人への注意も忘れていない。
 しかし、今の大樹が怒った所で、誠司も響子もあまり怒られているという感覚にはならなかった。
 誠司は、小さな身体で懸命に怒りを表す友人の姿を目にし、今ここで再び笑えば更に大樹を怒らせると、己の中からこみ上げる笑いを必死に堪えている真っ最中。
 響子は、現在自分の目の前に居る幼児が、小さくなってしまった夫だと理解しながら、ただただ可愛いなと頬を緩ませるのみ。
 ダイニングルーム内に、大樹の怒りを理解する者など居ないのだ。
「響子ちゃん、俺にもコーヒー!」
 いつもブラックコーヒーを飲んでいる大樹は、何故目の前に置かれたマグカップの中身が、いきなりホットミルクになっているのか、まったく理解出来なかった。
 彼は、熱い熱いと何度も声を漏らしながら、マグカップを両手で持ち上げ妻の目の前へ差し出す。自分は、ホットミルクではなくブラックコーヒーが飲みたいのだというアピールだ。
 小さな瞳が、迷いなく真っ直ぐ自分を見つめている。そして、小さな手で子供には少々大きなマグカップを差し出すその姿。
 出来る事なら、すぐにでもその願いを叶えてあげたいという気持ちが響子の中にうまれる。しかし、それでは駄目だと、彼女は心を鬼にし口を開いた。
「コーヒーは駄目です。夜眠れなくなるし、子供の体に良くありません」
 コーヒーに含まれるカフェインが、小さくなってしまった大樹の体に悪影響を与えてしまうかもしれない。キッチンで誠司達の飲み物を準備している時、響子はふとそんな事を考えた。
 そんな彼女が、小さな大樹でも安心して飲める飲み物として選んだのがホットミルクだ。生憎浅生家の冷蔵庫にジュースの類は置いていなかったため、夫が身体を冷やさぬようにと考えた結果である。
 大真面目に返答する響子の姿に、大樹はこの世に絶望したと言わんばかりのショックを受けた顔で固まり、誠司は二人の様子を見て再びこみ上げてくる笑いを堪えるのに必死だ。
 元々響子自身子供が嫌いというわけではないため、小さい頃から近所に住む自分より年下の子供達と遊ぶ事が何度かあった。小さくなった夫を目の前にした今、彼女の中に使命感に似た感情が生まれている。
「コーヒー飲みたいなー……ね? お願い」
 直球攻撃が効かないとなれば、今度は変化球を投げてみよう。そう考えた大樹は、現在自分が幼児姿になっている事を最大限利用する作戦を考えた。
「う……だ、駄目です」
 目をウルウルと潤ませ、小首を傾げ再度響子にコーヒーを強請る大樹。四十歳間近の図体のデカい男がこんな事をしても気持ち悪いだけだが、今の大樹の外見でとなれば、可愛さしかない。
 そんな大樹の策略に一瞬首を縦に振りそうになった響子は、慌てて己の首を左右に振り邪心を振り払った。
「チッ……これでも駄目か」
「……心の声漏れすぎだろ。はぁ……まるで悪戯坊主とその母親だな……」
 誠司は、目の前で繰り広げられる浅生夫婦のやり取りに溜息を吐きつつ、マグカップを手に取り響子に淹れてもらったコーヒーを啜った。



「状況は理解出来ているつもりなんだが……どうにもまだ信じられない。本当に、お前は大樹……なんだな?」
「そうですー。お前の大学からの腐れ縁の男ですー」
 何度頼んでもコーヒーを飲ませてくれない響子の対応にすっかり不貞腐れた大樹は、目の前に座り首を傾げる親友の言葉に投げ遣りな口調で返答する。
 その言葉に、誠司の眉がピクリと動いた事に気付いた響子は、慌てた様子で隣に座る大樹の名前を呼ぶ。
 親友の投げ遣りな口調に一瞬怒りを覚えた誠司だったが、いつもと同じようなものかと、彼はすぐに冷静さを取り戻した。
 大樹との付き合いが始まって二十年近く経ち、これまでへそを曲げた親友の姿を何度となく目にしてきた。その度に、子供と変わらないじゃないかと、呆れていた自分の姿を彼は思い出す。
 自分より身長が高いおっさんが拗ねた姿など滑稽なだけだと思っていた。
 しかし、現在自分の目の前に居る親友の外見、言動が、まるでパズルの最後の一ピースをはめたようにしっくりくる。
 すっきりしたような、それを認めたく無いような、モヤモヤした気持ちが誠司の中に芽生えた。
 気持ちを誤魔化すために小さく溜息を吐くと、自分の目の前で小さな影が動いた事に彼は気付いた。
 何だかんだ文句を言いつつ、しっかり飲んでるじゃないか。
 未だ不貞腐れた様子を見せる大樹が、小さな両手でテーブルの上に置いたマグカップを支え、ちびりちびりとホットミルクを飲む姿に、誠司は僅かに口元を緩める。
「……よし、それだけ怒るんなら、俺にお前が正真正銘の浅生大樹だと証明してもらおうか」
「え? あの、誠司さん?」
「その勝負乗った!」
「大樹さん!?」
 突如誠司の口から持ち掛けられた勝負。それは、彼の目の前に居る小さな男の子が浅生大樹だと証明してみせろというものだった。
 そんな突然すぎる誘いに、今まで不機嫌オーラ全開だった大樹は即座に首を縦に振る。
 こういう単純な性格は、小さくなろうと昔から変わらないなと、誠司は心の中で呟く。
 あまりにも突然すぎる展開に、驚愕するばかりの響子は、夫と誠司の顔を交互に見つめる事しか出来なかった。



「それでは第一問。お前の誕生日は?」
「十二月三十一日の大晦日!」
「家族構成は?」
「親父、母さん、俺、弟の瑞樹」
 響子が座る席の隣にある椅子に座ったその子は、テーブルを挟んで自分の向かい側に座る誠司の問いに、何の迷いも無く次々と返答していく。
 幼稚園児程の子供が、こんなやりとりを出来るなど、一般的に考えてそう簡単なものでは無いはずだ。あまりにもスムーズなやり取りを目にし、響子の脳裏にそんな考えが思い浮かぶ。
 自分には弟の瑞樹が居ると口にした時点で、この子が浅生大樹であるという事はほぼ間違いないと思った。
 大樹と瑞樹に血の繋がりは無い。大樹が高校生の時、施設から養子として浅生家にやってきたのが瑞樹だ。その弟の名前を、何の迷いも無く答えたという事は、彼が浅生大樹であると証明されたも同然だった。
「響子さんからも、何か質問してみてください。貴女と大樹、二人しか知らない事の方がいいでしょう」
 大樹と一問一答を繰り返していた誠司が、不意に視線を響子へ移し彼女へ声をかける。
 突然自分の名を呼ばれた事に驚き、慌てた響子だったが、誠司の言葉に、大樹と自分しか知らない事は何があるだろうかと悩み始める。
 悩みだしてから数秒、不意に視線を感じそちらを向けば、隣に座る大樹がじっと自分を見つめている事に彼女は気付いた。目をキラキラと輝かせ、どんな質問がくるのかと待つその姿は、本当に子供と一緒だ。
「それじゃ……えっと。私達が料亭に行った時、大樹さんが私のバッグにつまづきました、よね? その時に中身が飛び出して……大樹さんが最後に拾ってくれた物は何でしたか?」
 自分と大樹しか知らない事。誠司の言葉を聞き彼女が考えたのは、自分と大樹が本当の意味で互いの心を知れたあの日の出来事だった。
 最初は、個室内で立ち上がろうとした大樹が何につまづいたかを質問しようとしたが、もう少し捻った問題の方がいいのかもと思い、大樹が拾った物について彼女は問いかけた。
 散らばった荷物を拾ってくれた行為は、彼にとってなんて事の無い普通の行動だったのかもしれない。しかし、そんな何気ない優しさに響子は嬉しさを感じた。
 それに、この問題の答えとなる物がきっかけで、大樹に関する今まで知らなかった事を知れたという事が、一連の流れとして彼女の記憶に深く残っていたのだ。
「んー……最後に俺が拾ったのは……そうだ、響子ちゃんが瑞樹から貰った名刺だ!」
 響子の問いに即答える事は出来なかったが、大樹は頭を悩ませつつ、一分もしないうちに答えを導き出した。
 どうだ、と言わんばかりにタオルケットで隠れた腰に手をあて、胸を張る彼の姿に、響子は正解ですね、と笑みを浮かべ口を開いた。
 きっと自分しか覚えていないだろうと思った事なのに、それを大樹が覚えていてくれたという事実が、彼女の喜びの感情を引き出す。
 響子の反応を目にし、嬉しそうに真っ白い歯を見せながら笑う大樹。
「ゴホン……あまり長々とやっても意味ないからな。それじゃ大樹、次が最後の質問だ。俺がお前の誕生日にやったプレゼントで、一番最近渡したのは何だ?」
 夫婦二人の様子を頬杖をつき眺めていた誠司は、このまま二人の世界に入られては困ると思った様で、わざとらしく咳払いをした後、大樹に対し最終問題を出す。
「お前からのプレゼント。一番最新の物、それは……オシャトレのブルーレイボックスだ! いやー、あれは本当に感謝してるわ、響子ちゃんもオシャトレ大好きになったし。やっぱり、この機会にお前もオシャトレにハマ……」
 自分の大好きなアニメのタイトルを口に出したからか、大樹は一人、誠司にも作品を見て欲しいとその魅力を語り出す。
「……ふふ」
 響子は、そんな大樹の姿を見つめながら、大樹らしいと小さく笑った。
「やっぱりこの子供は大樹ですね。まぁ……家族構成で瑞樹の名前が出た時から確信はありましたが」
「え、それじゃあ……私の質問は必要なかったんじゃ」
「あぁ、それは……単にこいつの反応が面白かったからです」
 にっこりと誠司の顔に浮かんだ笑みと共に発せられた言葉に、響子は苦笑いを浮かべ、未だ一人語り続ける小さな夫を見つめた。



 浅生家に現れた小さな子供がこの家の主である大樹だと証明されてから十数分後、三人の間に新たな問題が浮上した。
「だから、何度も言っているだろう。明日からはまた仕事! お前はそんな小さな体でどうやって仕事をするんだ!?」
「そんな心配しなくて大丈夫だって。ほら、こういうのってアニメだと大体一日で元に戻るから……」
 この問題を最初に気付いたのは誠司だった。
 今日は日曜日、という事はまた明日から彼らは出社し働かなければいけない。しかし、知識や記憶は問題無いと言っても、幼児化した大樹が出社したら、社内はパニックになってしまう。
 明日の事を危惧する誠司とは反対に、明日の朝には元の体に戻っているかもと暢気な事を言う大樹。
「戻らなかったらどうするんだ?」
「……響子ちゃん、誠司が俺を苛めるよ」
 しかし、親友が口にしたもっともな意見に反論する事が出来ず、大樹は隣に座っていた響子の膝の上へ逃げ込んだ。
 タオルケット一枚で身体を覆い、妻の膝の上に座り甘えるように抱き着くその姿は、まさに母親に甘える子供の図と言っていいだろう。
「えっ!? あの、大樹さん……ひゃっ!?」
 突然の出来事に戸惑いを見せ夫の名を呼ぶ響子。しかし次の瞬間、胸元に感じた違和感に彼女は思わず声を上げてしまう。
「あー……幸せだ……このまま死んだっていい」
 なんと、自分の今後について真剣な話し合いが行われているというのに、大樹は現在、自分の妻の胸元へこれでもかと顔を押し付けている。
 緩みきった頬と、緊張感の無い声、そして大樹の予想外の行動に驚愕し、響子も誠司もしばらくの間言葉を失った。
「お前は人間の屑だ……今すぐ死ね。死んで響子さんに詫びろ」
「あ、そうだ。もし元に戻らなかったら、響子ちゃんを臨時秘書にしてよ。そんで俺の仕事手伝ってもらうの」
 友人の仰天行動に毒づく誠司、そんな誠司の言葉など聞こえないとばかりに妻を秘書にしてくれと頼む大樹。
 男達の言い合う声など耳に入らず、響子は顔を赤くしながら、虚ろな目で呆然と小さな旦那を見つめるのだった。



「……という、夢を見ました」
「……はぁ。俺が小さく、ねぇ」
 妻から不思議な夢を見たと言われ、その内容を聞いた大樹は、あまりにも現実離れした妻の夢に、呆然とするばかりだった。
「すみません、変な話しちゃって」
 夢の話をすれば、笑い飛ばされるとばかり思っていた。しかし、夫の反応が予想していたものと違ったため、響子の中で急速に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「な、何か飲み物を……ひゃっ!?」
 リビングにあるソファーに大樹と二人並んで話をしていた響子だったが、あまりの恥ずかしさに我慢出来ず、飲み物を取ってくると適当な理由をつけ大樹から少しの間距離を置こうとした。
 しかし、そんな彼女の願いは叶う事無く、立ち上がった瞬間腕を引っ張られ、響子は再びソファーの上へその体を沈める。
「はぁ……吃驚した。一体どうした……へっ?」
 立ち上がった瞬間、自分の意思とは関係無く体が動いた事に驚き速まった鼓動を落ち着かせながら、響子は自分の腕を引っ張った犯人へその理由を問いかけようとした。
 そして、不意に僅かな胸元の圧迫感を感じ、一体何だと視線を向ければ、彼女は目の前の光景に口を閉ざす。
「うーん、これじゃやっぱり高さが……よし」
 何故かそこには、妻の目の前に跪き、彼女の胸元に顔を埋めようとする大樹の姿があった。しかし、何やら納得のいかない様子の彼は、自分もソファーの上へ座り直す。そして次の瞬間、ひょいっと隣に座っていた妻の身体を抱え、自分の膝の上へ座らせた。
「あの、大樹さん……何を、やってるんですか?」
 夫と向き合うように彼の膝の上に座らされた響子は、状況がまったく理解出来ない事に加え、現状の体勢の恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じながら、途切れ途切れな言葉で夫へ問いかける。
「ガキの俺ばっかり、いい思いさせられないっての」
「いい思いって……あれは、ただの夢の話……っ」
 気を抜いていれば聞き逃してしまいそうな小さな大樹の本音。その本音に対する妻の反応は聞きたくないとばかりに、大樹は彼女の胸へ顔を埋める。
「ん……あとで、カフェオレ作って。二人で一緒に飲もうね……って、響子ちゃん動ければいいけど、ククッ」
「大樹さ……やめ、くすぐったいっ……って、どこ触ってるんですかっ!」
 喉を鳴らして笑い、己の顔を妻の胸へ何度も押し付けてくる夫を引き離そうとする響子。
 そんな彼女の抵抗など気にも留めず、大樹は空いている手をスカートからのびる妻の太腿へ伸ばし、厭らしい手つきでどんどん足の付け根へ向かい手を滑らせる。
「もう……一体、何がしたいんですか」
 スカートの中へ侵入しそうになる手を阻止しようと、響子は慌てて大樹の腕を掴み、未だ胸に顔を埋めた夫の頭部をじっと見つめ声をかける。
「それは、さぁ……ほら、子供の俺には出来ない事? んっ」
「んっ!?」
 妻の問いに答えるため顔を上げたと思った瞬間、大樹は、もう片方の手を響子の後頭部へ回し、更に互いの顔が近付くよう力を入れた。そしてそのまま、愛しい妻の唇を塞いでしまう。
 夫からの口付けに、最初は目を見開き抵抗した響子。しかし、だんだんと口付けが深いものへ変わり、己の口内で厭らしく動き回る夫の舌の熱に、彼女の抵抗する力は徐々に弱まっていく。
「……まだ、お昼前、なんですけど」
「いいのいいの、今日はお休みなんだから」
 未だ夫から求められる事に慣れず顔を赤くする響子の口からは、最後の抵抗とばかりに言葉が紡がれる。しかし、その声は弱々しく、彼女が本気で嫌がっていない事を理解するには十分なものだった。
 大樹はソファーから立ち上がり、己の首に両腕を回し抱きつく妻をしっかりと抱え直す。拗ねた子供のように抱きつく妻の唇へ、時折悪戯に口付けながら、彼の足は寝室へ向かい歩き出す。
 愛しい愛しい妻の夢の中に出てきた小さな自分。そんなちっぽけな存在にすら、己が激しく嫉妬している事に苦笑しながら、大樹は腕の中に居る存在に、自身の愛を伝えるため、再びキスをした。
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