契約書は婚姻届

お子様な旦那様(前編)

「…………」
 その日、いつも通りベッドの上で目覚めた響子は、目の前でスヤスヤと寝息を立てる者を目にし、驚きのあまり言葉を失った。
「……スー……スー」
 ここは、浅生夫婦が住むマンションの寝室。結婚後、毎日のように大樹と響子が共に眠りにつくベッドの上。
 昨夜、確かに自分の隣には夫である大樹が居たはずだ。記憶に間違いは無いと、何度も響子は自分自身へ言い聞かす。
 それでは、今響子が目にしている光景はどう説明すれば良いのだろう。
「スー……ムニャ……」
 いつも大樹が眠っているベッドの上。そこに彼の姿は無い。今、響子の視線の先で穏やかな寝息を立てているのは、上半身裸の幼児だ。
 一体何が起こったと言うのだ。これは一体どういう状況なのだ。響子の頭の中は疑問符が嵐のように飛び交い続ける。
 いつも通りの週末。昨夜ベッドの中で、たまには二人でどこかに出掛けようかと話したのは、まだ記憶に新しい。
 確かに昨夜、自分の隣に寝ていたのは夫だったと、響子は記憶の糸を必死に手繰り寄せる。
 しかし、今自分の目の前で眠るのは、見た目からして四、五歳くらいの小さな男の子。
 裸のままうつ伏せで寝ているせいか、彼が寝息を立てる度、その小さな肩が僅かに上下している。背中の半分から下は、掛布団に埋もれているため、どのような状況なのか分からない。
 季節は春、室内とは言え、流石に裸で寝ていては、この子が風邪を引くかもしれない。
 目の前の状況に関し疑問は多々あるものの、響子は一度小さく息を吐き、未だスヤスヤと寝息を立てる幼児の首元まで、掛布団を掛け直す。
「……あれ?」
 掛布団を掛け直した響子は、不意に自分の視界に入ってきた物に気付き、それにゆっくりと手を伸ばす。掛布団の下に埋もれていたのが、今の彼女の行動によって姿を現したらしい。
「……えっ?」
 彼女は、自身が両手で掴み目の前に掲げる物をしばし見つめ、混乱のあまり首を傾げる。
 響子が掛布団の下から発見したのは、夫である大樹がいつも着ている紺色ジャージのズボン。
 確かこれは、昨夜夫が部屋着として着ていた物の筈。だとしたら、何故それが脱ぎっぱなしの状態でここにあるのだろう。そもそも、これを着ていた張本人は一体どこへ消えたのだ。
「大樹さーん、どこですかー?」
 未だ眠る男の子を起こさないように気を遣いながら、響子は室内を見回し声を発する。そしてベッドから降りると、夫の姿を求め部屋中を探し始めた。
 隠れられそうな場所は無いだろうと思いつつ、彼女はクローゼットの中などを念入りに調べた。数分程部屋の中を徹底的に探したが、やはり大樹の姿は無い。
 寝室に居ないとなると、他の部屋に居る可能性が高くなる。あまり朝に強くない夫が早起きして向かう場所はどこだろうと考えながら、響子は廊下へ出るためドアへ近付いた。
「んー」
 その時、ベッドの方から何かが動く音と人の声が聞こえ、響子は慌てて振り返る。眠っていたはずのあの子が起きてしまったのだと、彼女は確信した。
 どこの誰かも分からない小さな子供を、寝室に一人残していく事も出来ない。だからと言って、大樹の捜索を後回しにもしたくない。
 これから自分はどう行動すれば良いのかと、響子が混乱し始めた時、彼女の耳にその声は届いた。
「ふぁー……響子ちゃん、おはよう」
 響子の視線の先には、ベッドの上で上半身を起こし、大きな欠伸をしながら、彼女の名を呼び朝の挨拶をする裸の子供が居た。



「…………」
 響子は、夫の捜索を一時中断しベッドの傍へ戻った。それから数分、彼女の瞳は、ベッドの上にちょこんと座る子供を凝視し続ける。
「きょ、響子ちゃん……どうしたの。俺、なんか変?」
 自分に真っ直ぐ視線を向ける女性の姿に、裸の幼児の顔は徐々に引き攣り始める。
 成人男性とは違う、声変わりなどしていない子供独特の声で名前を呼ばれ、響子は驚きの感情を覚えると共に、その脳内に一つの仮説を立てた。
『きょ、響子ちゃん……どうしたの。俺、なんか変?』
 今まさに目の前に居る子供の口から聞いた言葉。ベッドの上で顔を引き攣らせる彼の姿が、見慣れた夫の姿と重なる。
「あの、貴方のお名前を教えてもらっていいですか?」
 まさか、そんな事があるわけない。そう思いながらも、響子は目の前に居る男の子に対し、彼の名前を聞こうと問いかける。
「ん? 浅生大樹ですけど。……響子ちゃん、どこか具合悪い? なんか変だよ。熱でもあるのかな」
 響子の突然の問いに、不思議そうな顔で彼女を見上げる子供。そして、彼は眉間に皺を寄せながら、目の前に居る女性の体温を確認しようと、そっと響子へその手を伸ばす。
 自分の問いに対する子供の反応を見ながら、響子は思わず頭を抱えたくなった。
 まさか、自分の目の前に居る幼稚園児程の子供が、夫である大樹だと言うのだろうか。そんな漫画やアニメの世界のような出来事が起こるというのか。
 彼女は、自分の脳内に思い浮かんだ一つの可能性を必死に否定する。しかし、目の前に居る幼児の言動、姿の無い夫、脱ぎ散らかされた夫の衣服。そのどれもが、響子の想像を肯定するものばかりだった。
「…………」
 夫の捜索を再開してから、改めて冷静に状況分析をした方がいいかもしれない。そんな事を考えていると、響子は、目の前で自分の方へ片手を伸ばしたまま固まっている男の子の姿に気付く。
「……? どうしたの?」
 手を伸ばし固まった彼の顔は酷く驚いた様子だ。その様子に、響子は思わず子供と接するような砕けた口調で声を掛ける。
 その直後、男の子はゆっくりと伸ばしていた手を自分の方へ戻し、しばし自身の掌を見つめる。
「……っ!」
 次の瞬間、まるで何かに弾かれたように顔を上げると、彼は急いでベッドを降り、ある場所へ向かった。
「……ちょっ! 服、服!」
 今まで静かにベッドの上に座っていた子が、突然行動を起こした事に驚き、一瞬反応が遅れた響子。しかし、ベッドを降りて走る幼児の後ろ姿を目にした瞬間、彼女は顔を赤くしつつも、咄嗟にベッドの上にあった薄手のタオルケットを手に取った。
 男の子が、全裸のままプリプリと可愛らしいお尻を揺らしながら向かった場所。それは、響子が自身の身だしなみをチェックするために部屋に置いた、全身が映る程の大きな鏡の前だった。
「何で俺子供になってんのー!?」
 鏡に映った自分の姿を見た男の子が、その事実が衝撃過ぎると大声を上げた。
 そんな彼の様子を見た響子は、自分の想像が現実のものになったと悟る。
 どうやら、響子が目覚めた時隣で眠っていた子供は、彼女の夫である浅生大樹という事らしい。



「…………」
「…………」
 それから約二時間後、浅生家のダイニングルームに、二つの影が集まっていた。
 子供の姿になってしまった大樹がクッションを積み上げ高さを調節した椅子に座り、そんな彼と向かい合うように大樹の親友誠司が座っている。
 誠司が来る一時間半程前、突然体だけ幼児化してしまった大樹の姿が現実だと知った響子は、これからどうすれば良いのか悩んだ。
 大樹に昨日の行動や、何を食べたかなどを聞いたが、特に不審な点が無かったため、根本的な解決法が見つからない。
 このまま悩んでいても事態が進展する事は無いと思ったのか、大樹の口から自身の弟である瑞樹、親友である誠司の二人に相談するという案が出された。
『こんな馬鹿げた現状に付き合ってくれるの、瑞樹か誠司くらいだろうし』
 何故頼ろうと思ったのがその二人なのかと言う響子の問いに、大樹はあっさり言葉を返した。
 そんな夫の言葉に頷きながら、コンシェルジュの中で、一番大樹と仲が良い工藤にも協力してもらえないかと、響子は提案した。
 工藤なら、小さくなった大樹を見てもあまり戸惑う事無く、寧ろ積極的に解決策を探してくれるのではないかと考えたからだ。
 しかし、彼女の提案を、大樹は申し訳なさそうな顔で即却下してしまう。
『コンシェルジュの皆には、とりあえず黙ってよう。迷惑は掛けたくないし。それに……豊君に言っちゃったら、あっという間に知れ渡る気がして……あと、解決策も、あんまり……』
 言葉を所々濁しているものの、要するに豊は使えないと大樹は言いたいらしい。いつも接する工藤の姿を思い浮かべた響子の中に、そんな事は無いと否定したい気持ちはあったが、実際にそれを示す事は無かった。
 その後、まずは身内である瑞樹に頼ろうとしたが、すぐにその案は却下となった。何故なら、弟が仕事で温泉地へ宿泊ロケに行っている事を、大樹が思い出したためである。
 近場に居ない人物に電話を掛けても、余計な心配を掛けるだけになってしまう。
 瑞樹なら多分仕事放り出しても来そうだから、と苦笑する夫の姿に、響子は心にあたたかいものを感じた。
 例え血は繋がっていなくとも、困った時本当に互いを助けあえる。そんな兄弟の姿を目の当たりにしていると感じたからかもしれない。
 瑞樹に頼れないと分かった二人に残された手段、それは響子も親しくし、大樹の親友とも言える誠司へ助けを求める事だった。
 子供になってしまった大樹の声でいきなり電話を掛けると怪しまれる可能性があるという事で、大樹のスマートフォンを借り響子が誠司の携帯電話へ電話を掛けた。
『何日曜の朝っぱらから電話掛けて来てんだよ、このア……』
 もう頼れるのは誠司しかいないと、響子達は緊張した面持ちで彼へ電話を掛けた。
 しかし、コール音が途切れ誠司が電話に出てくれたと、内心歓喜した響子が聞いたのは、いつもの誠司からは想像もつかないような、不機嫌だと言わんばかりの低すぎる声。
 電話口から溢れんばかりの不機嫌オーラに恐怖を感じた響子は、反射的にスマートフォンの電源ボタンを押し強制的に通話を終了させる。
『そうだった。あいつの寝起き最悪だって事、すっかり忘れてた』
 電話越しに聞こえた親友の声は妻の傍に居た大樹の耳にも届いていた様だ。
 薄らと顔色が青くなった幼い夫の姿を目にし、そういう事は先に言って欲しいと響子は溜息を吐く事しか出来なかった。
 大樹の話によれば、まだ彼らが大学生だった頃、男友達数人で旅行に行った事があるらしい。もちろん、そのメンバーには誠司も含まれていた。
 旅費節約のために、全員同じ部屋で寝起きをしていたらしく、どうやら、その旅行で誠司の寝起きの悪さが発覚したらしい。
『俺も十分寝起き悪いって自覚あるけどさ、あいつはそれ以上だよ。しつこく起こそうとしたら蹴られたからね。朝から、すっごいテンション低いの。悪魔みたいだった……』
 当時の状況を思い出しているのか、親友の寝起きに関し話をする間、大樹の顔色は青いままだった。
 その後、電話を掛けては切られ、子供の姿になってしまったと言っては切られ、三十分近く誠司と電話のやりとりを続けた大樹達。それから一時間後、最初は馬鹿な事を言うなと渋っていた誠司が、浅生家へとやってきたのだ。
「今の俺が着られるような服買って来てって頼んだでしょ!」
 互いに無言のまま、ダイニングルームにある椅子に座って数分、先に口を開いたのは大樹だった。
 現在の大樹は、全裸のままタオルケットを使ってその小さな身体を覆い隠している。
 いつも自分が着ている衣服はサイズが大きすぎるため着れず、かと言って、いくら妻であると言っても響子の服を着るわけにはいかないと、小さくなった大樹が主張した結果だ。
 春の気候、そして室内という環境とは言え、いくらなんでもこの恰好は耐えられないと、ここへ来る途中に子供用の服を買って来て欲しいと彼は親友に頼んだ。
 しかし、浅生家へやってきた誠司が持っていたのは、財布や携帯電話など必要最低限な物のみ。
「大丈夫だ、お前は元々頑丈だから部屋から出さえしなければ風邪なんか引かないだろう。それにしても……まさか、本当に子供になっているなんて」
 誠司は、未だに自分の目の前に居る子供が、長年付き合いのある大樹だとは信じられない様だ。ふむ、と何かを考え込むように腕組みをし、そのまま黙り込んでしまった。
 いつもと変わらず冷静で落ち着いている様子を見せる誠司だったが、流石の彼も今回の事には内心驚きを隠せなかった。
 貴重な休日の朝、電話で叩き起こされ、いきなり長年の友人の体が小さくなったと聞かされて、すぐに信じろという方が無理だろう。
 普段通りに見える友人が内心混乱している事を察してか、今まで服に関し騒いでいた大樹も、口を閉じ大人しくする。
 しかし、子供の体では何もする事が出来ず、彼は、どうにも出来ない現状に不満げな様子で口をへの字に曲げ、暇そうに宙へ放り出された小さな足をぶらぶらと動かすしかなかった。
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