契約書は婚姻届

俺の友人について話そうか(後編)

『誠司。……今からさ、お前の家……行っていい?』
 大樹からそんな電話が掛かってきたのは、出張を終え彼と別れた三日後の夜だった。
 全国各地を飛び回る生活も終了し、会社で最終チェックを終わらせれば、その後、俺達には三日間の休日が待っている。
 大樹も、早く響子さんの元へ帰りたいんだとばかり思っていたが、仕事を終えた彼は、弁護士の所へ行くと言って、会社へ戻らず一人どこかへ出掛けて行った。
 どうせあいつは、久しぶりの響子さんとの再会を喜び、はしゃいでいるのだろうとばかり思っていた。なのに、数日ぶりに聞いた電話越しの彼の声は、あの頃の声にどこか似ている気がした。大樹が精神的に追い詰められていた、あの頃の声に。



「……グスッ……う、うっ」
 大樹が我が家へやってきて既に三十分が経過した。
 三十分前、玄関で必要最低限の挨拶を済ませリビングへ移動した大樹は、ここへ来る途中で買ってきたらしき数種類の缶入り酒をテーブルの上に並べ、一人勝手に酒を飲み始めた。
 最初は無言でただひたすら酒をあおるように飲み続けていた大樹だったが、少し酔いが回ってきたらしく、何故かは分からないが突然泣き出してしまった。それでも、酒を飲む手を止める様子は無い。
 突然の電話。玄関で見た彼の雰囲気。そして無言で酒を飲み続ける様子。何か大樹にとってマイナスな出来事が起きた事は一目瞭然だ。
 それに、酒は楽しく美味しく飲みたいと常日頃言い続けている奴が、こんな飲み方をする事自体おかし過ぎる。
「…………」
 俺はそんな友人の様子に戸惑いながら、自宅の冷蔵庫から取り出した缶ビールを飲み続ける。
 明日からはまた仕事仕事の毎日。久しぶりの連休も今日で最終日だ。
 連休と言いつつ、結局俺は会社の事が気になり、日中は結局会社で仕事ばかりしていた気がする。そんな休みを過ごした最終日の夜、突然やってきた友人が泣きながら酒を呷っている。
 なんとも複雑な気分だが、家の中に上げてしまった以上、今となって帰れとも言えない。
 無言で酒を飲みながら、どうして大樹がこんな状況になっているのかを、俺は一人考え始める。
 今回の長期出張は、俺と大樹の二人で全国各地を飛び回らなければいけない、結構なハードスケジュールだった。
 この出張が決まった時から、彼は終始行きたくないと駄々をこねていた。理由はもちろん響子さんの事だろう。
 元々は大樹の自分勝手な我が侭から始まった結婚。この話を彼から聞かされた時は正直驚くばかりだった。そして俺は、目の前で話をした男に心底呆れ果てた。
 しかし、今となっては響子さんも大樹も、互いに相手を愛しているのだから、結果的には良かったのかもしれない。
 連日のように、響子さんとの惚気話を聞かされ、正直うんざりしている部分もある。しかし、この件に関して大樹が正直に話せる相手は俺しか居ない事は理解しているため、最近は彼の惚気話もほとんど聞き流し、適当に相槌を打つようにしている。
 それだけ大好きな妻と何日も離れる事が嫌だという理由。そして、自分が居ない間の彼女自身の事を心配し、大樹は今回の出張に関して渋っていたに違いない。
 以前付き纏われていたという元交際相手の女性が再び現れ、響子さんが嫌がらせを受けているという事は、俺も大樹から聞いて知っていた。
 その件を一刻も早くなんとかしたいという彼の気持ちに、俺も同じ想いだった。
 響子さんと俺は、まだ数回しか接した事が無い。しかし、彼女以上に大樹を支え、導いてくれる女性は他にいないだろうと俺の中で確信に近い気持ちがあった。
 そんな彼女が困っているのだ。俺だって出来る限りの事は協力してやりたかった。
 しかし、時期が悪すぎた。以前なら、大樹を嫌がらせ解決に集中させるため、俺がいつも以上に働けば済む話だったが、今はそれが通用しない。
 年が明けてすぐ、大樹本人から、会社に本格的に復帰し、副社長に就任して俺のサポートをしたいと申し出があった。
 一体彼の中で何があったのかと最初は驚かされたが、話を聞けば響子さんのためにいつまでも引き籠っているわけにはいかないから、という事らしい。
 あの大樹にここまでの決断をさせるなんて、響子さんには一体どんなパワーが秘められているのだろう。
 そんな申し出があり、四月から大樹が副社長に就任し経営を続けるため、今はその地盤を固めている所だ。
 現在、上層部の中にでも大樹の存在を知らない者達は居る。そんな彼らと大樹を会わせ、親睦を深めさせたり、今後仕事を円滑にするため互いの仕事現状を把握させたりと、やる事は多い。
 上層部だけでは無い。三月になれば大々的に社内で大樹の副社長就任を発表するため、その時に混乱が起きないように、各部署の部長達にも大樹の事を事前に知らせ、互いを理解させたかった。
 社内だけでは無く、現在取引をしている会社も同じだ。今回の出張の目的の中には、取引をしている会社関係の上層部と大樹を接触させる狙いもあった。
 大樹の副社長就任に伴い、様々な場面で彼自身が行動しなければいけない場が一気に増えた。そのため、帰宅が遅くなる事は多々あり、会社に泊まり込む日もあった。
 現状が現状だけに、響子さんに対する嫌がらせ解決に時間を割く余裕もあまり無く、大樹の中で苛立ちと焦りが日々増している事を、傍に居る俺も感じていた。
 出張中も、時間を見つけては愛する妻へ電話やメールをしていた大樹の姿を、何度も目撃している。
 自分が留守の間、響子さんに何かあっては困ると言って、彼はいつも妻の様子を気にかけていた。出張が終わった後も、弁護士の所へ行き今回の一件を完全に片付けると、大樹が意気込んでいた事を思い出す。
「うう……うう……」
 しかし、数日前意気込んでいた男は、現在俺の目の前で酒を飲みまくっている。しかも泣きながら。この三日間で一体何があったと言うのだ。理由を聞きたい所だが、どうも話し掛け辛い。
「大樹……その……ストーカーの女性の件は、片付いた、のか?」
 このままではどうしようも無いと、俺は意を決し大樹に話し掛けた。
「ん……片付いた。警察の人が、警告してくれたから……もう大丈夫」
 俺の問いかけに大樹は、コクリと頷く。警察からの警告が出たという事は、本当にもう大丈夫なのだろう。
「よかったな、本当に。これで、ようやく響子さんも安心でき……」
「うわあぁぁん、響子ちゃーん」
 ようやく響子さんも安心できるはずだ。そう言おうとした俺の言葉を、大樹の泣き叫ぶような声がかき消していく。
 どうやら俺は、彼の中にある地雷のスイッチを押してしまった様だ。



 大樹は泣きながら、先程自分の身に起きた出来事を話してくれた。
 ストーカーの一件を無事解決し、出張先で買ったたくさんの土産を持って、彼は自宅へ帰ったそうだ。
 しかし、帰った途端、大好きな妻から離婚届を突きつけられたらしい。
「…………」
 俺は、響子さんが大樹に渡したという離婚届を見せてもらっている。詳しい状況までは分からないが、大樹がここへ来た理由、そして泣いている理由はなんとなく理解出来た。
 出張から帰った途端、溺愛している妻から離婚したいと切り出されれば、誰だって泣きたくもなるだろう。
「響子ちゃんに嫌われたー。うわあぁぁん」
 空になったビール缶をガンガンテーブルに叩きつけながら、響子さんに嫌われたと泣き喚く大樹。
 テーブルに傷がついたらどうするんだ、と視線で訴えるも、そんな俺の心の声など今のこいつには届かない。
 予想外過ぎる展開に、正直俺自身驚いているのが現状だ。
 何故だ。二人はあんなに仲良く暮らしていたはずなのに。何故急に響子さんは離婚したいと言い出したのだろう。
 その前に、この展開の原因は、目の前で泣きじゃくっている男にもある事に気付き、視線を離婚届の用紙から、大樹へと移す。
「凄い今更な気もするが……お前まさか、響子さんから離婚したいって言われて、あっさり承諾したんじゃないよな?」
「…………」
「黙ったまま目を逸らすな。何故理由を聞かなかった! そんだけ泣くんだったら、別れたくないって食い下がれよ!」
 俺の問いかけに無言で目を逸らす目の前の男。それが大樹の答えだと知り、俺は思わず声を荒げた。
「……彼女が別れたいって言うんだから、これでいいんだよ」
 今まで泣いていた男が、突然冷静に、どこか淋しげに、一言言葉を漏らす。
 どうしてだ。どうしていつもお前はそうなんだ。
 大樹の表情と言葉に、俺の中で、モヤモヤした苛立ちと困惑が混ざり合う。
 自分より他人の事を優先し、どこか自分を押し殺す男だと、彼の性格を理解し始めたのは大学で出会いしばらく経った後だ。
 見た目や軽く接しただけでは、誰も彼の心が人一倍繊細だとは気付かないだろう。
 大学で出会った当初、俺は大樹の事があまり好きでは無かった。いつも緩んだ笑顔で誰とでも気軽に接している男。それが彼に対する第一印象。
 しかし、大樹と長年友人関係を続けて行く中で、その緩んだ笑顔が大樹にとって一種の自己防衛なのだと理解した。
 いつも笑顔で誰とでもフレンドリーに話す大樹だが、その笑顔に心からの喜び、楽しさが含まれる割合は少ないのだろう。
 もしかしたら、本人にとっては楽しんでいる部分もあるのかもしれない。
 しかし、自分と相手との間に線引きをし、自分のテリトリー内に相手が入らないように接する。急に接近し過ぎず、だからと言って相手をあまり遠ざけないように。それが大樹流の人との接し方だ。
 そして、大樹の人間関係に関し、大きな特徴がもう一つある。彼は、一度心を許した人物に対してのみ、真の自分を見せるのだ。
 ただの知人や部下は、大樹に対し、いつも優しく笑顔で接してくれる、明るく楽しい人という印象を持つだろう。
 それに対し、俺や大樹の弟である瑞樹みずきなど、ごく一部の人間しか知らない、人一倍繊細で自分を押し殺す男という印象。
 瑞樹曰く、大樹は世間一般的に言えばヘタレというジャンルに分類されるらしい。その定義はよく解らないが、俺からしてみれば、大樹はただの女々しい馬鹿だ。
 借金を肩代わりする事を条件に結婚までしたのに、何故別れたいと言われたからと言って、あっさりそれを受け入れられるのだ。
 いや、受け入れてはいないのだろう。受け入れられないからこそ、こんな夜に俺の所に来て、酒を飲み泣いているんだ。
 泣くほど好きなら、別れたくないと食い下がれば良かったのに。そんな言葉が再度口から飛び出しそうになるのを、俺は必死に堪える。
『え、もう離婚届まで貰ってるのか!? いくら何でも早すぎるだろ』
『いいのいいの。俺の我が侭に付き合ってもらうんだから。例え一日だけの結婚でも、俺的には充分満足なの。彼女が嫌だって言ったら、一刻も早く解放してあげたいんだ』
 響子さんとの結婚について経緯を説明された時の事を思い出す。
 彼女が嫌がったら、早く自分から解放してあげるんだ。
 そう言った彼の言葉を思い出し、再び無言でビールを飲む大樹に、俺は何も声を掛ける事は出来なかった。



 大樹が我が家で酒を呷っていた夜の事を思い出しながら、再度自分の手の中にある携帯電話の画面を見つめる。
 そして、勝手に見るのは少々気が引けるが、俺は思わず大樹が作成したメール本文を読み始めた。
『御無沙汰しています。あれから、体調などお変りありませんでしょうか。先日、社内全フロアの掲示板にて告知した人事に関する通知を、きっと貴女も御覧になった事でしょう。貴女と同じ会社で働いていたという事実を、今まで黙っていて申し訳ありませんでした。それだけではありません。他にも、私はまだ貴女に話していない事がたくさんあります。このまま嘘を吐き続けるわけにはいきません。今私が貴女に対し隠している事を、全て包み隠さず話したいと思っています。もしお話を聞いて頂けると言うのなら、今夜、白桜亭にお越し頂けないでしょうか。本当は、もっと早くお話したいと思っていたのですが、仕事が忙しく、ようやく今日一段落したため、メールをお送りました。突然このようなメールを送り、貴女を困らせてしまって申し訳ありません。もし叶うというのなら、貴女の顔を見てすべてを話したいと思っています』
 そこに書かれていたのは、普段の大樹からはまったく想像もつかない堅苦しい文章だった。
 朝から大樹が独り言を呟きながらやっていた作業は、どうやらこのメール作成の様だ。
 このメールから察するに、彼は今夜、響子さんにすべてを話すつもりなのだろう。この前は嫌われたと大泣きしていたのに、なんというか律儀な奴だ。
 携帯電話の十字キーボタンを押しながら、俺は、メール本文後の長い空白の後に突然現れた一文に目を奪われる。
 そこには、『敬語って難しい』という言葉と、困り顔の顔文字が添えられていた。
「難しいんなら、いつものようにメール書けよ」
 この場に居ない相手に対しツッコミを入れながら、小さく溜息を吐く。
 元々、大樹は堅苦しい言動が苦手だ。といっても、彼自身、それなりに敬語やマナーは身につけているため、まったくそういった事が出来ないわけでは無い。
 しかし、自ら好き好んで敬語を使うわけでは無いため、何故こんな堅苦しいメールを書いているのか、不思議で仕方なかった。
 難しいと最後の最後で言うのなら、いつも通りに書けばいいのに。最後の最後にぼやいた文章のせいで、このメールの雰囲気が一気に台無しになっている気さえしてくる。
「まぁ……あいつらしいと言えば、あいつらしいのか」
 改めてメールを確認すれば、宛先、タイトル、本文すべてが入力されており、後はもう送信ボタンを押すだけの状況だった。
 まだ本文を書いている途中とは思えない程、大樹にしては完璧なメール。あいつの覚悟が詰まったメールだ。
 あとは、これを響子さんに送信するだけ。しかし、その送信を大樹がするのかは謎だ。
 自分の事に関し、肝心な所で行動を起こさないあいつの事だ。響子さんにこんなメールを突然送ったら迷惑かもしれない、などと理由をつけ、なかなか勇気が出ず未送信のままになる確率は極めて高い。
 ふと時計を見れば、現在は午後三時過ぎ。社員達の仕事が終わる午後五時までは、あと約二時間。
 今夜は大樹の副社長就任祝いのパーティーが開催される。主役である大樹本人は、そんなもの開かなくていいと言っていたが、そういうわけにはいかない。
「……遅刻くらいなら、いいだろ」
 自分以外誰も居ない社長室で、俺はそんな言葉を呟くと共に、メールの送信ボタンを押した。



「ふー、たっだいまー」
 それから三十分後、ようやく大樹は社長室へ戻ってきた。
「あぁ」
 俺は軽く反応を見せ、すぐに部下から送られてきたメールに目を通し始める。
「いやー、ケーキ美味しかった。あれは間違い無く売れるね。女の子達も、カロリーが低いって所が嬉しいらしいし」
 試作品のケーキが美味しかったと嬉しそうに感想を述べながら、大樹は再び来客用のソファーへ腰を下ろした。
 そんな彼の報告を軽く聞き流しながら、返信のための文章を考え、俺は黙々とキーボードを叩く。
「……ねぇ、誠司。もしかして……俺の携帯、触った?」
 その時、まるで壊れたロボットのような、ぎこちない大樹の声が耳に届いた。
「あぁ」
 俺はキーボードの上に乗せた指を動かし、視線をパソコン画面へと向けたまま、彼の問いに答える。
「メール、見ちゃった?」
「あぁ」
「メール……送っちゃった?」
「あぁ」
 メールを送信したかという問いに肯定の返事をした瞬間、バタバタとこちらに向かって大樹が駆け寄ってくる。
「何で送っちゃったの!」
 そして彼は、バンッとデスクを両手で力いっぱい叩き、仕事をする俺を睨み付けた。
 俺はキーボードを叩いていた手を止め、視線を目の前で困惑している男へ向ける。
「どうせお前の事だ。あのまま送るかどうか一日悩んだ末、結局送らない可能性が高い。だから俺が代わりに送っておいた」
 感謝しろ、と喉まで出掛った言葉を慌てて呑み込む。危ない危ない。こんな事を言ったら、余計にこいつを怒らせる事になる。
「なんで……送っちゃったの。あれまだ途中だったのに」
「俺には完璧な文章に思えたぞ」
「最後に変な事書いてたし」
「あの方がお前らしい。響子さんも、お前からのメールだと一発でわかる」
 再びメールの文章を入力しながら、数回大樹と言葉のやりとりを続ける。その後も、何かブツブツと文句を言っていたが、すべて無視する事に決めた。
 そしてその後、せっかくあんなメールを送ったのに、呼び出した本人が遅れてはいけないと、俺は無理矢理大樹を社長室から追い出し、白桜亭へ向かわせた。



「有難うございました、誠司様」
 その日の夜、パーティー会場前で待つ俺の所にやってきた大樹は、お礼の言葉と共に深々と頭を下げた。
「響子さんがあんな事言った原因は何だったんだ?」
「嫌がらせの事で……俺に、迷惑掛けたくなかったんだって」
「……お前が弁護士に相談してる事をさっさと言っていれば、こんな騒ぎにならなかったんだぞ。響子さんが、自分から離婚したいなんて言う事も無かったんだ」
「だって、早く解決したかったし。仕事忙しくて、なかなか時間取れなかったし。離婚の事は……本当に悪かったと思ってるよ」
 俺の言葉に最初は文句を言っていた大樹が、急に顔を伏せ力無く呟く。響子さんに申し訳ない事をしてしまったと本気で反省しているのだろう。
「よし。これですべて元通りだな。さ、行くぞ。主役を待ってる爺さん達の元へ」
「……行きたくない、けど……行かなきゃね」
 そう言って、俺の隣に並ぶ大樹。隣に立った俺より少しばかり身長が高いその男の顔は、いつも以上に凛々しいものだ。すっかり仕事モードになった彼の姿に安心し、俺は目の前にある扉を開き、二人揃って会場内へ足を踏み入れた。
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