契約書は婚姻届

俺の友人について話そうか(前編)

「これで……いや、違うな。もうちょっと……」
 俺の仕事空間でもある社長室に置かれた来客用ソファー。そこを朝から陣取り、まったく動こうとしない男が一人。
 名前を浅生大樹と言い、つい数日前、この株式会社『With U』の副社長になる事を発表した男だ。
 出社してから、何故か自分の携帯電話を睨み付けるように見つめ、少し操作してはブツブツ文句を言い、それを繰り返し続けている。
 お前は会社に何をしにきているんだ、と普通なら怒鳴る所なのだろう。しかし、自分にとって既にこの光景は当たり前のようになっているため、俺は特に口を開く事無く、視線をデスクの上に置いてある書類へ移し最終チェックを再開する。
 大樹はグダグダと怠けているように見えて、やる事はやる男だ。今のようにオフモードになっているという事は、自分が今やるべき事はすべて終えているという事。何かしら仕事が残っている状況で、今の様に怠けている彼の姿を俺は見た事が無い。
 社長という立場故に、今まで、仕事に関し様々なタイプの人間を見てきたが、大樹程オンとオフの切り替え、状況の差が激しい男は他に見た事が無い。
 仕事中でも、たまに自身のキャパシティーを超えると、文句をダラダラ言う事はあるが、それでも最後には仕事をきっちりとこなす男だ。
「この言い回しだと堅苦しすぎるから、もうちょっと優しく」
 書類に目を通していても、自然と耳に入ってくる大樹の独り言。最初は聞き流していたが、どうにも煩くて困る。
「はぁ……」
 不意に出た溜息。チェックし終わった書類をデスクの隅の方へまとめて置き、そのまま椅子から立ち上がる。そして、ソファーに陣取る大樹の目の前へと移動した俺は、目の前にある奴の頭を強めの力で叩いた。
「っ、だぁ!」
 突然頭を叩かれた事に反射的に声を上げ、痛みを感じた部分を慌てて両手でガードする。そんな状況にも関わらず、しっかりと携帯電話を握りしめる大樹の姿に、俺は更に溜息を吐きたくなった。
 何をするんだと、無言のまま俺を見上げ訴えかける大樹。二十年近く付き合いがあるんだ、その辺は理解しろ、と無言の言葉を乗せ、俺は彼を見下ろした。
「……はい、どうぞ」
 その時、不意に出入り口のドアをノックする音が聞こえ、俺はドアの向こうに居る社員に入室の許可を出す。
 部屋に入ってきたのは、商品開発部部長の田所たどころという男だ。俺や大樹の元に、こうして社員が訪ねてくるのは、特に珍しい事ではない。
 我が社では、部下達の意見を積極的に取り入れるため、例え入社一年目の社員であろうと、自信があれば、上に直接自分の考えた企画を提案する事が出来る。そうは言っても、会社を立ち上げてからこれまで、流石に入社一年でそんな無謀な事を実行した人物の数はごく少数だ。
 我が社で開発した商品を利用してくださるお客様、そして社員の皆、その一人一人と向き合い、より良いものを作っていく。『あなたと共に』をコンセプトに、大樹と二人で立ち上げた会社、それがこの株式会社『With U』だ。
 俺が社長に就任し、大樹は役員として部下達をまとめ、ここまで大きくしてきた。
 一定の上下関係はあるものの、他部署同士や、先輩後輩、そんな立場をあまり気にせず意見を言い合える会社。それが我が社の特徴と言って良いだろう。
 以前から、他社とは違う社風はあったが、ここ数年はそれがますます強くなった気がする。その要因の一つは、大樹が精神的に病み、ここ数年引き籠っていた事が関係しているのかもしれない。
 彼の事があってか、俺は以前にも増して、役職のある部下達に、もっと自分より下の人間の意見にも積極的に耳を傾けろと言い続けた。
 すると、大樹のように引き籠るまで重症では無いものの、精神的に疲れている社員は何人も見つかった。
 俺は必死に時間を作り、彼らと一人一人面談を行った。雑談を交えながら現状への不満、悩みなどを聞きだし、必要とあらば大樹が世話になった病院を紹介したりもした。
 より良い商品、より良い企画を生み出すためには、社員達が意欲的に仕事が出来る環境を整えてやる事が大事だ。俺は、それを大樹から学んだ。
 実際、社員同士の交流が増えてから、我が社の業績は少しずつではあるが、以前より確実に上がっていった。
 家に引き籠っている事を後ろめたく思っているためなのか、それとも俺が、仕事で自分を示せと言ったからなのかは分からないが、大樹も自ら出来る仕事を積極的にこなしていた。
 ただでさえ精神的に不安定になっているのに、そんなに仕事を詰め込んで大丈夫かと逆に不安になる事もあったが、彼にとって、それはプラスに働いた様だ。
 社内の雰囲気、そして大樹の状況に対し、異論を唱える連中は少なく無かった。
『あぁ、大樹はこいつらにやられたのか』
 異論を唱える連中の意見を聞いていくなかで、大樹が引き籠った原因は、少なからず彼らにもあるという事が、俺にも分かった。
 彼らの意見は正論で確かに正しいものだった。しかし、上下関係、立場というものに少々こだわりを持ち過ぎている気がしてしまう。
 最終的に、自分の保身ばかり考える連中を相手にしていると、流石の俺も頭が痛くなる事が多かった。大樹が引き籠りたくなる気持ちが、少し解った気がする。
 話し合いを重ね、どうしても意見の合わない奴や、自ら辞めたいと言った奴に対し、俺は引き止める事をしなかった。
 どうして止めなかったと大樹は困惑していたが、引き止めた所で無意味だと答えると、相変わらず容赦無いね、とあいつは苦笑いを浮かべていた。



「失礼します。あの、副社長がこちらに居ると聞きまして……あぁ、副社長、探しました」
 社長室内へ入った田所は、すぐに来客用ソファーを陣取る大樹を発見した。
 先日大樹が副社長になる事を発表したからなのか、部下達は最近彼の事を『副社長』と呼ぶようになった。
「…………」
「……あの、副社長……少し、お時間宜しいでしょうか」
 田所が声を掛けても、大樹は彼の声に反応を見せる様子は無く、無言で携帯電話を弄り続ける。
 室内に騒音は無い。とても静かなものだ。そんな中、自分に遠慮がちに声を掛ける部下の様子に、気付かないわけがない。意図的に無視していると誰もが解るその光景。どうすればいいんだと言わんばかりに、田所が困り顔で、助けを求め俺の方へ視線を向ける。
「田所、名前だ……名前」
 俺はソファーに座る大樹を指差し、困り果てている彼に名前だとアドバイスを送る。
「あっ! そ、そうでした。すみません、浅生さん。少々お時間を頂いてもよろしいですか?」
 俺の言葉を聞き、瞬時にある事を思い出した田所は、改めて大樹に声を掛けた。今度は、『副社長』ではなく『浅生さん』と呼んで。
「ん? なーに、どしたの?」
 ようやく自分を呼ぶ部下の声に反応を見せた大樹は、持っていた携帯電話をローテーブルの上へ置き、傍に佇む田所を見上げる。
「は、はい。実は……今開発を進めているコンビニスイーツに関して、ぜひ浅生さんの意見を伺いたく」
 自分を見上げる大樹の姿に、田所は少々緊張しつつ自分がここを訪れた理由を口にする。
「それはつまり……試作品の味見をしろって事かな?」
「は、はぁ……それもありますが、販売戦略に関しての意見も……」
「よし、それじゃすぐ行こう。さぁ、行こう! あ、誠司あとよろしく」
「わかった、わかった」
 コンビニスイーツという単語を聞いた瞬間、大樹の瞳がキラリと光った事を、俺は見逃さなかった。
 今すぐその場所へ連れて行けとばかりに、田所の肩に手を置いた大樹はズンズンと部下の背中を押し出入り口へ向かった。
 あとはよろしく頼むと、片手を上げるそんな友人と部下の後ろ姿を、軽く手を挙げ見送る。
「はぁ……」
 社長室のドアが閉まり、室内に残った人間は自分一人と認識した瞬間、俺は無意識に大きな溜息を吐いていた。
 先程まで大樹が座っていたソファーに腰を下ろす。まだ彼のぬくもりが残っている事が少々不快だが、すぐに気にならなくなるだろう。
 他の連中からすれば、先程の大樹の様子を見る限り、甘いものにつられて仕事へ向かった男という風に彼らの目には映るに違いない。
 実際、大樹がコンビニスイーツという単語に惹かれたのは確かだ。しかし彼は、他の商品開発部メンバーが待つ場所へ向かう途中、田所から販売戦略案などを聞いているはず。
 彼の脳内は、社長室を出た瞬間から仕事モードへ切り替わり、試作品を試食し、実際この商品を販売するとなった時の事を考え、ありとあらゆる改善点を探す事に集中するに違いない。
 普段からあれくらい集中してくれればと思う反面、大樹の緩さが社員達の緊張を和らげているのも事実。このままの状態維持でいいのだろうと、俺は一人苦笑するしかなかった。



「それにしても……あれはどうにかならないのか」
 社長室に一人になった俺は、自分専用のマグカップにコーヒーを注ぎながら小さく息を吐く。
『田所、名前だ……名前』
『あっ! そ、そうでした。すみません、浅生さん。少々お時間を頂いてもよろしいですか?』
 思い出すのは、数分前この室内で交わされた会話。
 引き籠りの一件があって以来、大樹は以前よりも敏感に肩書というものに反応するようになった。
 先程の事もそうだ。田所が自分を呼んでいた事に、あいつは間違いなく気付いていた。なのに返事をしなかった理由。それは、田所が自分を『副社長』と呼んだからだ。
 以前から大樹は、自分の事を浅生、または大樹と呼ぶよう周囲に徹底させていた。しかし、この度副社長就任が決まり、いつまでも名前で呼ぶものでは無いと、部下達が彼を『副社長』と呼びだした。
 それが大樹にとっては面白くないらしい。先程のように、自分に用事がある人間が話し掛けてきても、副社長と呼ばれれば無視を決め込む。
 お前は小学生の子供か、と怒鳴りたくなるが、彼にとって肩書に対する嫌悪感にも近い感情がそうさせているのではと、俺は自分なりの答えを導き出した。
 肩書に対し人一倍嫌悪しているはずの大樹が、何故副社長になると言い出したのか。その疑問を、彼が副社長になると言った日に尋ねた事がある。
『副社長になる理由? んー……やりたかったから?』
 的確な理由とは到底思えない答えが、大樹の口から告げられた時、申し訳ないが無意識に俺は彼の頭を引っ叩いていた。
 肩書を嫌う奴が副社長になりたかったなど、有り得ない理由だ。しかし、何度聞いても大樹は本当の理由を俺に教えようとはしなかった。
 わざわざ副社長になどならなくても、今までの体制で十分会社を経営していけるはず。あいつとは長い付き合いだが、未だに彼の言動に振り回される自分に小さく溜息を吐いた。
「……あいつ、携帯忘れてったのか」
 その時、ふとローテーブルの上に置き去りにされた大樹の携帯電話が目に入る。しかも、折り畳み式のそれはご丁寧に開かれ、真っ暗になった液晶画面がこちらを向いていた。
 緊急時の連絡には携帯電話が必要だというのに、何故常に持ち歩かないのかと頭を抱えそうになる。きっと、試作品試食の事で頭がいっぱいになり、数秒前まで自分の手の中にあった携帯電話の存在など、頭の中から消えていたのだろう。
 部下からの連絡が来た場合を考え、大樹が戻ってくるまで携帯電話を預かっておこうと、俺はローテーブルの上に置かれたそれを持ち上げる。その時、無意識に十字キーの下矢印ボタンを押してしまったらしく、今まで真っ暗だった液晶画面が急に明るくなった。
「……これは」
 明るくなった携帯電話の画面に表示されていたもの。それは、メールの作成画面だった。他人のメールを覗き見する趣味はまったく無いが、俺はどうしてもその画面から目を離す事が出来なかった。
 メールのタイトル部分に表示された『水越響子様』という文字。見覚えのあるその名前。それは、大樹の妻……いや、妻だった女性の名前に間違いなかった。
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