契約書は婚姻届

見守る者の悩み

「あの……何故、集合場所が俺の家になったんですか?」
 とある二月の平日、工藤豊の自宅アパートに、二人の珍しい来客がやってきた。
「いくら昼間とは言え、女性の自宅に男二人で押しかけるわけにもいきませんからね。私の家は……話し合いをする場所としては、不向きだと思って。子供達に邪魔されてしまいますから」
 工藤が発した疑問に、丁寧な回答をする橋本。その隣に座る美沙は、自分が買ってきた菓子をお茶請けにと用意し始める。
「だったら、ファミレスとかでいいじゃないですか。ドリンク飲み放題とかあるし」
「豊君、それは危ないよ。万が一、誰かに話聞かれちゃったらどうするの」
 工藤は、自分の家に突然仕事仲間が押し掛けてきた事が少々不満らしい。ファミリーレストランに集まれば良かったと言う彼の言葉に、美沙は即座に駄目だと首を横に振る。
「美沙さんはお菓子を、私は飲み物を持ってきましたから、豊君には場所提供をお願いします」
 にっこりと笑みを浮かべ上司である橋本にそんな事を言われてしまえば、工藤は逆らう事が出来ず、渋々首を縦に振るしかない。
 何故彼らがこうして集まっているのか。それはあのマンションで働くコンシェルジュ達の、小さいながらも共通の悩みが原因だった。
「どうせなら、西島さんと木村さんも来れればよかったんですけどね」
「仕方ないですよ。今日は二人の担当ですから。我々が全員仕事を休むわけにはいきませんからね」
 美沙がこの場に居ない仕事仲間の名前を出すと、そんな彼女を橋本は優しく諭す。
 大樹が暮らすマンションのコンシェルジュは現在五人。橋本、西島、工藤、美沙、そしてもう一人木村という男性が働いている。彼らには最近、共通の悩みがあった。それは、とある住人に対するもの。
「浅生様と水越様……どうしちゃったんでしょうね。本当に」
 橋本が買ってきたウーロン茶が入ったペットボトルの蓋を開けながら、溜息と共にそんな言葉を発する工藤。彼の言葉に、他の二人も小さく息を吐いた。
 彼らがここ最近悩んでいる事は、自分達の勤め先のマンションの住人、浅生大樹と水越響子についてだ。数日前から、二人の間に何か重大な事が起こった事は、既にコンシェルジュ達の間で噂になっている。
「美沙、本当に水越様はキャリーケースなんて持ってたわけ?」
「うん。最初は旅行にでも行くのかなって思ったんだけど……あれは多分、違うと思う」
 工藤からの問いかけに、美沙は首を横に振り自分が二日前に見た光景、そして自身の考えを口にする。
 荷物を持ち出掛ける響子の姿に、旅行にでも行くのかと思った美沙だったが、冷静になって考え直し、それは違うと彼女は結論を出した。女の勘、というものが働いたのかもしれない。
「浅生様も最近は様子変だよな。いつも通りに見えるけど……どこか元気が無いし」
 首を傾げ悩む後輩二人の姿を、橋本はテーブルの上に、キッチンの食器棚から勝手に拝借してきたグラスを置きながら黙って見つめる。
「既に集まっている状況で言うのも何だけど……あまり、我々が詮索しない方がいいんじゃないかな」
 眉を下げ、三人分のグラスに飲み物を注ぎながら、彼は口を開いた。その口調は、いつもの畏まったものでは無く、少しばかり砕けている。今の自分の気持ちを無意識に呟いたのかもしれない。
「流石に浅生様達に何があったのかは聞きませんよ。でも……気になるじゃないですか。お二人はとても仲が良いですし」
 先輩の言葉に、美沙は慌てて自身の胸の前で両腕をパタパタと左右へ動かし、口早に言葉を述べる。その声がだんだんと小さくなっていったのは、今話題の中心となっている大樹達を思っての事だ。
 詮索しない方が良いと言った橋本自身、工藤や美沙と同じように大樹達の事を気にしていた。
 二人のここ最近の様子もそうだが、大樹が出張へ出掛ける前、彼から頼まれた事を思い出し、橋本は眉間に皺を寄せる。
「もしかして……浅生様の出張中に来た女の人が原因で、二人が喧嘩しちゃってる可能性は無いかな? 確か……木村さんと橋本さんが対応して、お帰り頂いたんですよね?」
「あぁ、それ私も聞いたよ、木村さんから。その人凄い興奮してて、大変だったんだって」
 工藤と美沙の言葉に、橋本は木村と一緒に担当していた日に起こった出来事、そしてその数日前の大樹との会話を思い出す。
『橋本さん……悪いんだけどさ、俺が出張中、もしこの人がここに来たとしても、絶対中に入れないでもらえる?』
 明日から一週間程出張すると、大樹から話を聞いたのは、彼が出張する前日だった。
 自分が出張中、ここに残る響子の事を少しばかり気にかけて欲しいと頼み、そして、彼は一枚の写真を橋本に見せながら、写っている人物をマンション内に入れないで欲しいとも言ってきた。
 大樹から渡された写真に写っていたのは、今より少しばかり若い大樹と綺麗な女性だった。
『この方を、ですか?』
 突然の事に戸惑いを見せる橋本の姿に、大樹は苦笑いを浮かべ、己の頬をポリポリと掻きながら口を開いた。
『そう、絶対に入れないで。絶対に響子ちゃんに会わせないで。その女は……何をしでかすか分からないから』
 そう言った大樹の言葉の意味を理解したのは、それから数日後の事だ。
『何でよ、何で入っちゃ駄目なの!』
『申し訳ありません。どうか、ご理解ください』
 大樹から渡された写真に写っていた女がマンションにやってきたのだ。写真を見た時は思い出せなかったが、女の姿を見た瞬間、過去に自分はこの人に会った事があると橋本はすぐ思い出した。
 彼女が過去にこのマンションを訪れたのは、数年前に一、二回程だったため、記憶力に少々自信のある橋本も思い出す事が困難だった。
 マンションに入らないで欲しいと伝えた瞬間、彼女は目を大きく見開き、身体をプルプルと震わせたかと思うと、次の瞬間一際大きな声を発し、無理矢理エレベーターへ乗り込もうと走り出した。
 それを必死に止める木村と橋本だったが、女はなかなか言う事を聞かなかった。
 どうして自分は中に入れないのだ。以前は入れたじゃないかと喚き散らす女の態度に、困り果てた橋本は最終手段として、このままだと警察に通報する事になると強い口調で注意をした。
 警察という単語が効果的だったのか、今までの事が嘘のように女は急に大人しくなった。しかし、エントランスを去る瞬間、彼女は数秒間、何も言わず橋本と木村を睨み付け、ゆっくりとした足取りでその場から立ち去った。
『橋本さん……もし、俺に何かあったら、妻の事……お願いします』
『先に言われてしまいましたか。ついこの前結婚したばかりでしょう。新婚さんなんですから、縁起でもない事を言わないで。しかし……私も、その言葉をそのままお返ししますよ。あぁ、子供達の事もお願いします』
 自分達を睨み付ける女の視線。その憎悪で黒く染まった視線を真正面から受けたせいか、これまで何年もこの仕事をしてきたコンシェルジュ達ですら、しばらくその場を動く事が出来なかった。
「……はぁ」
 死の恐怖すら感じた日の出来事を思い出し、橋本は息を吐き出しながら、自分の中に溜まっていたものを外へ逃がす。
「橋本さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「えっ? あぁ、大丈夫ですよ。心配いりません」
 心配そうに自分の顔を覗き込む美沙の姿に、橋本は慌てていつもの穏やかな笑みを浮かべ小さく首を横に振った。



 それからしばらく経ったある日の夜、橋本は自宅で入浴を済ませリビングへ戻ってきた。
「こら、待ちなさい! 風邪引いちゃうでしょ!」
「いーやーだー!」
 濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ足を踏み入れれば、髪を濡らしたままパジャマ姿で室内を走り回る次男と、それを捕まえようと必死になる妻の姿が彼の目に飛び込んできた。
「やれやれ……っと。かける、逃げてないでお母さんに髪を乾かしてもらいなさい」
 逃げ回る息子をあっさり捕まえた橋本は、不満そうに頬を膨らます息子の小さな顔を見つめ、母親に髪を乾かしてもらえと言い聞かせる。
「ゴーってなるから嫌だ」
 小さな息子は、ドライヤーで髪を乾かす際の音を嫌がっているのだと知り、思わず橋本は苦笑してしまう。
「それじゃあ……髪をきちんと乾かしたら、翔の好きなジュースを皆で飲もうか」
「えっ、ジュース飲んでいいの!?」
「翔がちゃんと髪を乾かしたらね? ほら、お姉ちゃんだって髪拭いてもらってるだろう?」
 そう言って橋本は、抱き抱えた息子にとある光景を見せる。そこには、四月から小学四年になる長男に、タオルで髪を拭いてもらっている娘の姿があった。
 姉の姿とジュースの誘惑に負け、翔は渋々逃げるのを止めたらしく、父親の腕の中で大人しくなった。その様子を確認した橋本は、翔を妻へ引き渡し、リビングの中央へ歩みを進める。
「あ、そうだ。お父さん、少し前に携帯鳴ってたよ」
 その時、不意に妹の髪を拭いていた長男が、思い出したようにテーブルの上に置いてある父の携帯電話を指差し、先程着信があった事を橋本に告げた。
 ありがとう、と息子にお礼を言った橋本は、テーブルの上に置いてあった携帯電話を手に取り、髪を拭いたために少しばかり濡れてしまったタオルを己の肩に掛けると、来た道を戻り廊下へ移動する。
 数年前に購入した念願のマイホーム。その二階にある夫婦の寝室へ向かった橋本は、携帯電話を操作し入浴中に電話を掛けてきた相手を確かめる。すると、電話を掛けてきたのは西島だという事がわかった。
『もしもし』
 何か仕事に関する連絡だろうかと、橋本は慌てて西島へ電話を掛ける。すると、数回のコール音がした後、西島が電話に出た。
「私です。せっかく電話をしてもらったのに出れなくてすみません。息子を風呂に入れていたもので」
『いいえ、こちらこそ突然すみません』
「気にしないでください。それで……何かありましたか?」
 西島が自分に電話を掛けてくる理由は、ほとんどが仕事関係だ。何か問題でも起こったのだろうかと、橋本は少々不安になりながら電話の向こうに居る西島へ問いかける。
『いえ、あの……別に、何かあったわけでは無くてですね。工藤達とメッセージのやりとりをしていたら、突然工藤が、昨日の夜……マンションに水越様が来たと騒いでて。……本当ですか?』
 西島の言葉に、橋本はなるほどと、電話の向こうに居る相手の状況を理解した。
 橋本は、以前から愛用している二つ折りの携帯電話を使用しているが、彼以外のコンシェルジュメンバーは全員がスマートフォンを使っている。少し前まで西島も携帯電話を使っていたが、運悪く故障してしまったらしく、渋々新しいスマートフォンに機種変更したらしい。
 それより前からスマートフォンを利用していたのは工藤と美沙、そしてその二人に続くように木村も機種変更をし、三人でグループを作り気軽にメッセージのやり取りをしていると話を聞いていた。
 西島もスマートフォンに機種変更した事を知った工藤は、あまり機械類の操作が得意では無い彼を、半ば強引に自分達のグループに加入させ、今では四人でメッセージのやり取りをしているらしい。
 以前メッセージのやり取りをしている画面を見せてもらい、橋本さんもスマートフォンにして一緒にやりましょうよ、と工藤に誘われた事があるが、自分には難しそうだと、橋本はその時苦笑する事しか出来なかった。
 元々真面目で優しい西島は、工藤の無理矢理な誘いを断る事が出来ず、今でも三人に付き合って時々メッセージのやり取りをしていると聞かされたことがある。
 どうやらそのやりとりの中で、工藤は、昨夜マンションに響子が来た事を喋ったらしく、西島は半信半疑な気持ちで、工藤と一緒に居た橋本に事実確認のため連絡をしたのかもしれない。
「本当ですよ。確かに、昨日水越様がいらっしゃいました」
『それは……お戻りになられた、わけじゃないんですよね?』
「えぇ、そうです。『忘れ物』を取りにいらしたそうですよ」
 西島との会話の最中、橋本は、昨夜自分が接した響子と大樹の様子を思い出していた。
 コンシェルジュとして一番経験の浅い工藤でも気付いているくらいだ。あの二人の間に何かがあったのは間違いない。あのマンションで働くコンシェルジュ達全員が、その問題についてどうしたものかと悩んでいるなど、きっと大樹達は気付いていないだろうと、橋本は小さく笑った。
『橋本さん?』
 突然クスリと笑い声を漏らす橋本の様子に、西島は思わず電話の向こうに居る相手の名前を呼んだ。
「あぁ、何でもありません。あ、そうそう。忘れる所でした。豊君に、あまりこの問題について騒がず、詮索しないよう注意しておいてくださいね」
『……今、サラッと面倒な事押し付けられた気がするのは、俺の気のせいでしょうか』
「そんな事は無いですよ。豊君は、貴方の言う事だとよく聞いてくれますから。私から注意するより、効果的かと思って」
『はぁ……俺は工藤のお守役じゃありませんよ』
 電話の向こうで溜息を吐く西島の声に、橋本はしばらく苦笑するしか無かった。



「皆さんには……本当に心配を掛けてしまってすみませんでした」
「なんか、色々とごめんね。迷惑かけちゃって」
 響子と大樹が無事互いの想いを再認識し合った翌日、響子が宿泊していたホテルへ荷物と車を取りに行くため、昼過ぎにマンションを出ようとした二人は、エントランスで今日も仕事に励む橋本と西島の姿を見つけると、揃って頭を下げた。
「いえいえ、そんな。無事仲直りが出来たようで、本当に良かったです」
「そうですね。他の皆もきっと喜びます。はぁ……これで、騒がしい工藤から解放される」
 再び同居を始める事を二人が報告すると、橋本と西島は嬉しそうに笑みを浮かべ喜びを表した。その直後、ポロリと零れてしまった西島の本音を聞き、他の三人は憐みの視線を彼へ向ける。
「豊君に電話して、ちゃんと報告した方がいいかな」
「それなら……私が休憩時間にでも、メッセージを送っておきます。他の二人にもそれで一斉に伝わると思いますから」
 どうやら大樹は、個人的に工藤の連絡先を知っている様だ。自分の携帯電話を取り出した彼に、自分が皆に伝えておくと西島が口を開いた。
「それなら、今送ってきていいですよ。少しでも早い方が、皆安心するでしょうから」
「え、いいんですか?」
 今すぐこの場に居ない三人に伝えてあげてはどうか、と言う橋本の言葉に、西島は驚きを隠せず目を見開いた。
「ほんの数分の事です、問題ありません。あぁ、そうだ。何なら、浅生様と水越様のお写真を撮って送ってあげればいいんじゃないですか? 確か、そういう事も出来るんですよね?」
 突然の橋本の提案に戸惑いを見せる西島だったが、橋本に押し切られる形で彼は大樹達を連れ控室へと入っていった。
「こ、これでよろしいんでしょうか」
「はい、それで決定ボタンを押せば、画像が送れますよ」
 マンション入り口やエントランスの様子を眺めながら、自身の背後にあるドア越しに聞こえる西島や響子の声に、橋本は自然と口元に笑みを浮かべる。
「よし。あとは、これを工藤達が見れば大丈夫だと……」
「あれ? 俺の携帯鳴ってる……って、豊君!? うわ、反応はやっ」
 西島が報告を済ませたと口にした瞬間、携帯電話の着信音が鳴り、大樹の驚きを隠せない声が、ドア越しに橋本の耳へ届いた。
『うわああん! 浅生様ー! 良かったですねー良かったですねー。グスッ、水越様も良かったー!』
 そして次の瞬間、彼の耳に届いたのは、泣きながら良かった良かったと発する工藤の大声。どうやら、西島からの報告を見て、すぐに大樹へ電話を掛けてきたらしい。
「っ、工藤ー! 浅生様に迷惑を掛けるなー!」
 それに続いて聞こえたのは、電話の向こうで大泣きしている工藤に怒鳴る西島の声だった。
「やれやれ。……平和な事が、何より一番ですね」
 背後のドア越しに聞こえる賑やかな声に小さく溜息を吐き、橋本は口元に笑みを浮かべ一人呟いた。
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